効果を測るには

今日の学び

Liquid modernity
ホロコーストを生き抜いたZygmunt Baumanによる概念。
何事も常に液体のように動いていて、社会において「理想」という最終ゴールに辿り着くことはない。
また、独立と個人の責任の重要性を主張していた。

変動的な社会を研究して行く上で、どのように切り取って、それぞれの活動に対して評価をすることができるのか?

Precarity 
直訳すると、予測できない、または不安定な状態の意味。
ただバトラーのいうプレカリティは、生の不安定を意味する。

人間は、頼りないものとも知らずに、さまざまなものに依存して生きている。
例えば、生徒は「教師がくるだろう」と信じて学校に登校する。教師も「子どもたちが登校するだろう」と信じて学校に出勤する。このような不安定で脆い相互依存によって成り立っている。そのため、他者の支えや援助がないと生きていけない。

脆弱性とも違う。プレカリティは将来が見えず、不安定であるけど、脆弱性は将来が見えていたり、一定であったりする。また、プレカリティは大きな力によって握られているため、自分でのコントロールではどうにもできない。

この脆い相互依存性があるために、誰に対しても社会的補助が必要とされている。その社会的補助を考えたときに、一定数の人に向けた補助を与えたときに、そこに該当しない人がプレカリティになってしまうという懸念がある。

厳格な政治
2010年に保守派が選挙で当選して、Comprehensive spending reviewの調査を行なって以降、大幅な社会補助の減額が続いている。

それまでは、社会保障として、誰しもがすぐに専門家に相談できる制度が整っていた。例えば、Child centerという子どもに関する相談ができた場所が、ブライトン&ホーブ地区だけでも8カ所あったのが、それが金銭的な援助の不足もあり、2カ所にまで減った。その分民営化されていたりもするが、質の面で大きく変わっているらしい。

厳しい社会補助の制度によって、貧困問題が急増している。

ユニバーサル・クレジット制度(詳しくは「子どもから大人への移行」参照)を使って補助を得るには、ハローワークに定期的に行く必要性がある。ただし、急な風邪・子どもの兼ね合いなどで一度でも予約をキャンセルすると、その月の支給額が£70ぐらい減らされる。

家賃などの家に関する生活補助を受けている人には、ベッドルーム税というものがある。カップルが1LDKに住んでいる場合には課税されないが、2LDKだと14%家賃補助からベッドルーム税が差し引かれる。3LDK以上だと25%差し引かれる。2人しか住んでいないのに、それぞれに寝室があるのは贅沢という発想のもと制定されているが、例えば身体障害で同じベットに2人で寝られないなどのケースの場合、生活が困窮するという問題が起きている。

コロナ禍においては、全体の60%の家庭において、何かしらの金銭的困窮があり、資金援助を求める人が急増した。

ただ、政治家としては一部の生活困窮者への支援を訴えるより、より多くの市民にとってのメリットを訴える方が選挙で勝てる見込みがあるため、改善はしない。(コロナ禍の困窮に関しては例外)

資金の分配
財源が決められているときに、どこに分配していくのかが問われる。
分配先を決めるということは、誰の命を優先するのかと同等である。

例えば、ウクライナ難民に関してはケアをしようとするし、メディアでも多く取り上げられるが、パキスタンの洪水に関しては援助も放送も少なかった。これは、日本においても同じことが言える。難民を受け入れないことで有名な日本が、ウクライナ難民はすぐに受け入れたにも関わらず、アフガニスタン難民やクルド人などの受け入れはしていない。

とはいえ、できるだけ平等に分配しようとするとき、どこに資金を割くと、より大きな効果が得られるのか見定める必要がある。
ただし、冒頭で述べたように、変動的な社会である以上、効果性を調べるのは非常に難しい。

ランダム化比較試験(RCT)
evidence-basedの研究方法であり、医学において使われることが多い。
バイアスがかからないように、被験者をランダムに混ぜて客観的に評価するというもの。

ただし、どのようにランダムにするのか倫理的考慮が必要だし、結果が出たとしても、小人数の最大効果と大人数の最小効果を天秤にかける必要がある。

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自分の中での不明点

・社会学的研究方法

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個人的見解

平等性とかを考えるとき、いつもこのイラストを思い出す。

http://projectbetterschool.blogspot.com/2018/12/blog-post_9.html

限られた資金源の中で、だれに、どれだけの援助をすれば、より公正な社会になるのかを考えるのは難しい。それを考えていく上で、エビデンスが必ず必要になってくると思うけど、ただ、変動している社会において、どう切り取って、その効果性を研究するのかというのは、研究者としての見せ所でもあり、責任感の重さでもあると思う。

バトラーの概念を借りるなら、だれしも相互依存で生きているんだから、他人にも思いやりを持って、社会的弱者に寄り添えるようになってほしいなとも思いつつ、ただ、その社会保障に頼り切って自立をしない「社会的弱者」が急増する社会もどうかと思うし。そんな、自己中心的にならないで、みんなが幸福になれるように、みんなで一歩ずつ歩み寄ろうよ??とか思っちゃうけど、そううまくはいかないんだろうな。

自分も、ちょっと美味しい料理とか、ちょっといい服とか求めてしまうもんな。別に、わざわざその贅沢しなくても生きていけるし、その余剰分の
お金を他の人の元に回せばいいわけで。命の不平等さにめちゃくちゃ憤りを感じてる自分も、結局のところ加担してしまっているわけで。うーん。自己嫌悪に陥るな。。。

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