政治・社会的にみる「家族」

今日の学び

「家族になる」とは。
家族といっても、結局は個の集合体。
その個の集まりがどのように家族と化するのか。

McCarthy, J. “The powerful relational langurage of ‘family’ : togetherness, belongings and person hood”
Morgan, D. “Family practices in time and space”
の二つを読むと
1)同じ習慣をもつことで生まれる結束感・連帯感・所属意識があること
 →同じ時間・同じ思い出の共有など。

2)精神的なケア/サポートがあること

3)物理的距離ではなく、感情的な距離の近さがあること
があれば、家族となるらしい。

奥田太郎の「家族という概念を何が支えているのかー補完性の原理を経由して」を読むと、家族になるための3つの成立条件としては

1)主知主義的条件(血縁性)
 いわゆる血のつながりがあるのか。
 精子提供者・卵子提供者・出産者・養育者が異なるとやや難しいが。

2)主意主義的条件(契約性)
 当事者同士の認知。いわゆる「事実婚」「子どもの認知」
 のびたの家に住んでるドラえもんもきっとこれかな。

3)社会的条件(承認性)
 相続など社会的要請によるつながり。

(余談)
奥田さんの論文はなかなか面白くて、女性は子どもを妊娠したら母親になるけど、男性は女性と子どもから選ばれないと、自分の意志だけでは父親という存在になれないらしい。確かに、「あなたの子どもよ」って言われるか、遺伝子検査を受けないと、確実に自分の子かどうかなんて分からないよな。ちなみに、父親として家族という社会単位を持つのは、霊長類で人類だけらしい。

「よい家族」とは。
1960年代の、家族のイメージとしてはこんな感じ。

https://www.goodhousekeeping.com/uk/news/a559806/why-the-1960s-was-the-best-decade-to-grow-up-in/

白人、中流階級、父・母・子、笑顔、家族団欒。
これが、「普通」の家族であり、それ以外は「変わった」「問題のある」家族。

日々の家族生活は、結局、自分のイメージする「よい家族とはこうあるべきだ」というのを演じているに過ぎない。その理想とする家族は、自分が育った家族と同じであるとは限らない。自分がしてもらえなかったことを、親になった時にすることもある。

政治と家族
「家族がしっかり働いていたら、国としては家庭への援助が最小限に抑えることができるようになる。」と政治家たちは言っているけど、本当だろうか。

確かに、ある家庭の子どもが不良化したら、ご近所からは、家庭内の躾の不足ではないか、親が子どもをしっかりコントロールできていないと、家族に原因があるような目でみる。
そこから、街中に若者の不良が増えたら、政治家としては脱不良化に向けての支援を打ち出さないと行けなくなるため、その費用は確かに嵩む。
だから、家族の責任能力が高まれば、政治的負担は軽減されるという説にも納得はいく。

しかし、社会問題が起きる要因としては、個人的作用と政治的作用に分けられる。
個人的作用→親が子どもの面倒を見ないで、ほったらかして不良化。
政治的作用→親が一生懸命働いて、躾を試みても、なかなかうまくいかず、社会的支援も不十分なために不良化。

また政治としては、ひたすら家族を支援していくことに注力するのか、その根本的な原因(が明確な場合)の是正に注力すのかも大事。


「よい親」とは
Diana BaumrindによるParenting Style
子育ては、親の応答性と統制の組み合わせによって、4つの分類できるとされている。

1)権威的・指導的:統制が高く、応答性も高い。
 しっかり子どもの話を聞きつつ、コントロールもしている。
 →上手なペアレンティング。

2)権威主義的:統制が高く、応答性が低い。
 子どもの話は聞かずに、ひたすら規則に縛る。
 →児童相談所に通報されるやつ。

3)許容的:統制が低く、応答性が高い。
 子どもの話は聞くが、コントールできない。
 →親が子に負けて、わがまま放題してるやつ。

4)放任:統制が低く、応答性も低い。
 →ネグレクト。

実際には、「よい親」という型はない。
それぞれの文化によって、よいとされるものも違う。
ただ、Donald Winnicott は「普通の母親」のエキスパートではなく、自分の子どものエキスパートになることがよい母親と言っている。

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自分の中での不明点

・McCarthyとMorganの精神的ケアと感情的距離の近さの違い。
・結局、よい家族・よい親とは。

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個人的見解

これまで、いろいろな家族に触れてきたから思うけど、家族ってなんだろうね。
婚姻届を出していても別居している家族もいるし、同居して事実婚として家族生活を送っている人もいるし。よく、女子高生が「まじ親友⭐︎まじ家族⭐︎」っていうのも、ね。

結局のところ、お互いが同じレベルで家族って認識して、心のつながりがあれば家族な気がする。そこに、法的根拠とか、血縁的根拠を求めるかどうかであって、それはお互いにとって何がベストな形なのか話し合って決められたら素敵だと思う。まぁ、酔った勢いで婚姻届出しちゃう人生も素敵だと思う。

よい家族像・よい親像についても興味深かった。
自分の子のエキスパートにさえなれれば、社会的には「ダメな母親」でもいいっていうのは、世のお母さんたちを救う言葉な気がする。
でも、まずは子どもを作る前に、自分の中で「親になるとは」「自分の中での良い親像とは」「責任を全うできるのか」「なんのために子どもが欲しいのか」とか自問してあげてほしいなと個人的には思う。

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