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「必要十分」という考え方

少し前にある人が言っていた「必要十分」という表現。いちにちに5回は思い出すくらいだから、きっと今のわたしにとってすごく重要なキーワードなんだと思う。

"必要十分"
分量や程度あるいは条件を満たす要素などが、過不足なく、潤沢ではないとしても一応は間に合っており、このままで事足りている、という状況を形容する言い方。多分に通俗的な表現。

出典元:「Weblio」実用日本語表現辞書より

今から約2,000年前に成立されたと言われるヨガの根本経典「ヨーガ・スートラ」には、人生を豊かにする古代賢者たちのさまざまな教えが記されている。その中のひとつにSantosha(知足)という教えがあり、私が通うヨガスクールでは、目の前の世界を見ることができる「角膜」の価値を例に、この教えを説明されることが多い。

「もし目が見えない人に、あなたの角膜を売ってくださいと言われたらいくらで売りますか?1億円でも、10億円でも売れないのであれば、毎日それだけ価値があるものとともに目を覚ましているということ」

この例えを幾度となく聞き、共感して、「今自分にあるものに目を向けて、ありがたく生きよう」と思う。けれどその話を毎度そういった気持ちで受け取っているということは、普段はこの話を忘れ、目の前の今ある幸せや、自分が持っているものに目を向けられていないということだ。

自由に行きたいところに行ける足があり、見たいものを見れる目があり、くつろげる家があり、安心して話をできる家族がいる。さらに上を追い求めることや、新たな知識を探求することは悪いことではないけれど、「必要十分」を忘れてしまうと、せっかく今目の前にある幸せを目一杯味わうことなく、逃してしまっているのではないか。

少し体調を崩した時や、怪我をした時になって、やっとそういうありがたさを感じることができる。もちろん普段から、目の前の家族や今あるものに感謝して、足るを知って生きていけたら良いのだけれど、日々の生活で手一杯な今の私にはなかなかハードルが高いことだ。

たとえば時間がなくて簡単なご飯になってしまった時や今日中に終えたいと思った仕事を明日に先延ばしてしまった時、疲れて娘と一緒に寝落ちてしまった時。そんなとき「これが今の私の生活での必要十分だ」と割り切ら考え方が、今の私にとっての足るを知ることであり、「必要十分」なのかもしれない。

たまに数日体調を崩すことだって、いまある幸せに目を向けるきっかけをくれる機会と思ったらその時の私に必要なことであり、回復して元気になったときにもほんのわずかにその気持ちを持っていられたら、十分だ。

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