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【ゲスママ】神殿に供物をそなえ続ける、聖職者のはなし

タイトルからは想像できないかもしれないけれど、エロやグロテスクな話も忘れるほどに後味爽やかなのがふしぎな、神田つばきさんの「ゲスママ」を読んでのひとりごとです。

その爽やかさの秘密はたぶん、幽体離脱にある。

愛に飢えた幼少期から”ゲスママ”なり、現在に至るまでのひとりの聖職者の物語。なぜ聖職者と思うのかは後ほど。思うようにはいかず、苦しんだり、悲しんだりするのはどの小説だって一緒だ。しかしなんだろう。知らないひとの知らない人生に、読んでいる私が干渉し始める。バキバキ、メキメキと主人公と同化していく。こんなこと私にもあるある、理解できるというような共感ではない。神田さんの目を私の目として、神田さんの耳を私の耳として認識するような感覚。

たぶんそれは神田さんがその苦しみや悲しみを、まるで幽体離脱しているみたいに、別の次元(もしくはある程度の精神的キョリ)から語るからなのではないか。

感情との精神キョリの法則

メディアでは悲惨なニュースを目にしない時はなく、世界では飢餓で死ぬ子どもがこれだけいるんですとか、戦争でこんな状況になっています、という映像は、寝起きいちばんに見る天井のようで、どこか別の世界のお話に感じる。語り手たちからは、負の感情が溢れていてこちらにストレートに伝わってくるし、想像すれば身震いするのだが、肌感覚が遠い。

感情は、語り手が手放すほど、他の人が入ってきやすく、共鳴できるのだと思う。神田さんは幽体離脱して、じぶんをどこかヒトゴトみたいに言うのだ。負の感情ほどがんじがらめになるし、離れがたく、感情もこちらを離さない。じぶんと感情のキョリが近すぎると他人は入り込む隙なし。遠過ぎれば他人にもわからない、ということなのだろう。静観というか、諦観というか、私が知る中でブッダに一番近い女性なのではないかと驚愕する。こういう理由でゲスママをたくさんの人に読んでもらいたいと布教中である。

じぶんの神殿に捧げるもの

巷ではダイバーシティをたいせつに、などとスローガンが立ち上がろうとしているし、私もそんな活動をしているけれど、神田さんの稀な体験からすれば、その言葉がなんて薄っぺらくて瑣末なんだろうと思えてしまう。マイノリティとして生きるのが苦しくて、なんとかしようとマジョリティに新しい概念を植え付けている間に、彼女はどんどん突進していく。みんなのためのみんなの社会をだれかが謳っているとき、あっという間にじぶんのためのじぶんの世界を構築していってしまう。このスピードとエネルギーはどこからくるのだろうか。

この本でいちばん身に染みたことは、にんげんの人生というのはたぶん10歳くらいまでに欲しかった、実現したかったものをおそらく死ぬまで拡張させていくということ。その欲望を神殿と呼ぶとすれば、神殿はブラックホールで、飽きることなくいけにえを欲して人を操る。神田さんは忠実に供物を捧げる。これでしょうか、あれでしょうかと祈り、声を聞く。今幸せだと断言する人たちでさえ、じぶんの神殿の怒りを喰らって後々挫折することがある。神殿の声を聞けるだけで、聖職者として素晴らしい資質がある。

しかし神殿と調和できなければ、神殿の力に飲み込まれることになるのだが、神田さんはどうなのだろうか。今もまだ調和のために戦っているのかもしれない。

私の場合も神殿とは子宮のことなのだけれど、今の所完全にうまく調和できないので「子宮のバグ」というやつになる。幸せな家庭をつくりたいと理性では思うが、子宮がそれをゆるさない。痛みも感じないほどに傷めつけられても神殿がよろこぶので、せっせといけにえを運ぶ。いけにえとは、たぶん「普通の感覚」「正常」「一般的な何か」とかそういうものなのだろう。感覚はゴムなので、のびてしまうと元には戻らない。

なりたくてじぶんに生まれてきたわけではない、という圧倒的なかなしさ

私はなぜ人を尊重しなくてはいけないのか、という理由を恥ずかしながらこの歳になるまで完璧に理解していなかったことに気付かされた。そうだ、誰もがみんなじぶんになりたくて生まれてきてはいないのだ。

この身体という箱に閉じ込められ、逃れられず、命が終わるまで動かし続けなくてはいけない。どんなに辛くても泣きわめいても、この身体の呪縛は解かれることがない。なんという悲しみなんだろう。でも、逃げずに向き合っている人がいる。国でも、社会でも他人でもなく、向き合うべきは自分しかいないということ、それがどんなに勇気と知恵がいることなのか。もはや「ゲスママ」はファンタジーの域だ、ということを強くお伝えしたい。

あなたの淋しさはどこから?「私は鼻から!」

……と、淋しさを埋めてくれるインスタントで、カフェイン的なものに頼っていては、神殿がお怒りになる。次は神殿ではなく、”摂理”のようなものに殴られることになる。

−−ああ、そうか。そうだったのか。私は淋しい子供だったから、縄で縛られたいと思ったのか……!

淋しさの種類も、角度も、大きさも人によって違う。なぜ神田さんは縄だったのか。ザクザクだったのか。いろんな男性たちだったのか。ひとりの聖職者の物語をあなたも体験してみてはいかがでしょう。

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