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大学カリキュラム編成は、結構難しい: 大学のお仕事①

 小・中・高校もそうであろうが、大学も時間割を組むのは難しい。何が難しいのかをご紹介してみる。(小野堅太郎)

科目間の連携・順番

 まず、学問は必ずしも独立していない。国語は全ての学問の学びに必要なので、教科書を読める人は全ての学問を自学でき、より深くまで学ぶことができる。英語が苦手な人、特に英訳で点が取れない人は、英単語を暗記できていないことよりも国語が不得手であることがある。中学校まで「理科」として一科目に分類されていたものも高校からは、化学、生物、物理、地学に分かれます。大学ではさらに専門分野へと細分化されます。例えば、医療系大学の九歯大では、生物学が解剖学、生理学、生化学、分子生物学に分かれます。しかし、細分化されたとしても他領域の知見は当然必要で、各専門分野の境界は曖昧なのです。

 つまり、別科目でも微妙に重なる部分があるので、教える内容の順番に配慮しないといけない。小野が担当する生理学は解剖学と生化学の知識が必要なので、本来はこの二科目を習得してから教授するのが相応しいが、そんなことをすると両科目の先生たちが短期間にかなりの講義をやらなければいけないので、結局、同時に講義を進行させることになる。九歯大では、この問題を解決しようと三科目を統合した臓器・機能別の科目を複数作って長年に渡って運営してきた。しかし、実情としては、講義調整などで教員の負担が大きく悲鳴が上がっている。

教育効果のエビデンス

 教育は残念ながら実験的検証が難しい。二群を作って検証するとしても、短期的学習成果を比較することはできても、ある学問分野の学習成果を比較することは倫理的にできない。よって、カリキュラム改変を行う際には「多分、このやり方の方が教育効果が高いだろう」と推測して実行する他ない。教育実験で得られたエビデンスが、異なる環境、異なる教員、異なる学生層、異なる科目、異なる学習期間で、同じ結果を出すとは限らない。

 学生さんからアンケートを取っても、人によって意見が異なる。学生によって最適な教育法は異なるので、一様な教育システムで全員が満足するようなことはあり得ない。教員数が多ければ、複数の教育カリキュラムを適切な学生グループに対して同時並行で走らせることができるが(学習塾のように)、現在の授業料収入で教員拡充される可能性はない。

単位数の設定

 こういう「教育とはいかにあるべきか」という根本問題に加えて、法律や慣習として単位数なども決められているので、この枠内に講義を収めるのも大変である。

 多くの大学がセメスター制という6ヶ月1期の運用がなされており、基本的に講義・演習であれば、15週、週1回の計15コマで2単位となる。実験・実習だと同じコマ数で1単位となる。1単位あたり45時間の勉強が必要とされており、2単位なら90時間となる。

 さて、大学での授業時間は「90分で2時間」との換算が慣例となっているので、時間の概念が異なることに気をつけないといけない。大学以前は授業時間は45分もしくは50分であったのに、大学で90分となるのは、この授業時間換算による慣例のためである。高校までは法律で規定されているらしいが、大学に対しては特に法律はない。そのため、慣例から外れる100分授業にして14回授業なんてのもOKらしい。

 というわけで、90分授業の15コマは実時間としては22.5時間だが、30時間との計算になる。2単位となる講義形式では、90時間から講義時間の30時間を引いた60時間が自学自修のための時間となる。つまり、1回の講義に対して予習・復習を4時間(実質3時間)やらなくてはならない。

 となると、1日に4コマの講義があると、4x4=16時間(実質12時間)も自修となる。自修時間は土日にも割り振れるが、5時間程度が適切と言われてるので1日に実質11時間もの自修が必要となり、学生の寝る時間は無くなってしまう。

 そこで、2単位になる科目を1日3科目ぐらいにすると、3x4=12時間(実質9時間)の自修となり、6時間ほどは眠れるようになる。そういったことから、1日に2.5科目ぐらい、すなわち週に25単位分ぐらいの科目を最大履修数とするのが適切と言われている。

 しかーし、現代の日本の大学生はあまり自修をしていない。九歯大の学生はかなりやっている方だが、試験前は別として普段から1日5時間以上自修している学生は稀だと思う。そうすると、本来ならもっと沢山の単位未習得者が出るはずなのだが、そこまでいない。つまり、「試験の合格ラインが理想より低く設定されている」か、「授業の質が良く、学生の学習能力が高い」との二通りの解釈が出てくる。

 そもそも「自学自修を講義時間の倍やらないといけないように制度設計されている」ことを、学生どころか、大学教員でさえも知らない人もいる。また、知っていたとしても「これは理想論であって現実的でない」と考える人もいる。小野は知っているので、平気で「講義グラレコ」なる宿題を課している。

教員の特性

 カリキュラム改変では新しい科目が創設される裏で、消えてしまう科目もある。30年前、九歯大の学生であった頃、生化学講座に野口先生という教授がおられた。ペルオキシダーゼで有名な方で、その先生による「学術修辞学」という謎の講義が存在していた。内容は、「ペルオキシダーゼ精製を中心とした科学秘話、および研究哲学」であった。小野は死ぬほど感動した。特に、ATP発見はノーベル賞が獲れたのに、自分のペルオキシダーゼ発見が獲れなかったことの解説とその後の研究者人生については胸を打った。小野は生理学の道に進んだが、現在、九歯大内での科研費獲得ランキングのトップを占める細川教授、安細教授、北村教授らは野口先生の門下生である。

 研究する意欲(リサーチマインド)の涵養は、明らかにこの「学術修辞学」に存在していた。しかしこれは「野口先生」だからできた教育である。つまり、学内教員の人材リソースが科目に大きく影響してくる。親しくさせていただいている臨床医の先生は「人材は人財と書く」といつも言われているが、まさにその通りである。どういった教員が学内にいるのか、ということも知っていないとカリキュラム改変はできない。

まとめ

 教員間での教育に関する知識の有無や認識の違いが大学カリキュラム編成時に露見してくる。そして、揉めてしまい、中途半端な改変となり、酷い場合は「変えない方がよかった」となってしまうことがある。そうならないよう上記4つの項目は最低限おさえなければならない。

 多くの組織は、批判的検証を行わないため成長しない。時と共に時代遅れとなり、不要な業務が山積して効率性が低下する。改革には時間がかかり、結果が出るのは数年後。もし改革が失敗したなら組織から外されてしまう。ならば、部下であるうちは「変えない方が責任を取らなくていい」という考え方が合理性を獲得する。組織のトップに立てば失敗しても誤魔化して責任を逃れれる。こんな組織では、何も改善は行われない。組織トップは部下たちの改革の責任を一手に引き受ける度量が必要である。小野はそういう組織でしかやる気が出ないのである。

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