夏至生まれ

 夏至から五日たった今日、六月二十六日で二十三歳になった。まだ若いと呼ばれる年齢ではあるけれど、一年の過ぎる速さを見ていると、もう間も無くそれも終わってしまうのだろう。二十を超えたあたりから時間の流れがどんどん速くなっている。生まれた頃がハイハイ、幼小が歩き、中学がジョギング、高校が自転車だとすれば、今は軽自動車で走っているぐらいの感覚だ。もしかしたら人生のスピードはその時の移動手段に比例しているのかもしれない。そのうち新幹線の速さに到達して、車窓の景色なんか、大雑把にしか見れなくなってしまうのだろうか。

 この前、友人らと疏水に蛍を見にいった。酒を買おうと思ったのにお金がなかったり、蛍をそうそうに見飽きて結局喋るのに集中していたり、意味もなく木に登ったり、とてつもなく生産性のない時間だったけれど、とてつもなく豊かで幸福な時間だった。
 人生が加速していく中で、友人という存在はほぼ唯一「今」の実感をもたらしてくれる。缶ビールを持ったレジでお金がなくて顔を見合わせたり、彼氏の女友達が最悪だった話にゲーって顔をしたり、木の上ではしゃぐ僕に友人がシャッターを切ったりするとき、人生は虚構じゃないと感じられる。次々に流れていく車窓からの景色がスローモーに鮮明に目に焼き付けられていく。そんな気がするのだ。日々が加速するにつれて忘れていくことが増え、それゆえ忘れたくないことが増えていくが、それは大抵、こういう取るに足らない友人との日常だ。

 十年後、二十年後、今仲良くしている人のうち何人と連絡を取り合っているだろう。何人の結婚式に赴き、何人の子供と遊び、何人に禿頭を笑われ、何人が葬式に参列してくれるだろう。多分そう多くはないだろう。小中高でも少ない数の人間と知り合いそれなりに友達になってきたが、今も連絡を取り合うような人は少ない。今交流のある友人だって例外ではないだろう。
 そういうものだし、仕方ないことだし、仮に「じゃあ小学校の同級生に連絡してみれば」と言われても多分しないし、だから大したことではないのだろうけど、そういうことを考えて時々さみしくなる。死ぬまでとは言わないけれど、人生の段階が進んでいっても、仲良くしていたい。年一回ぐらい、誕生日のときに連絡し合うくらいには。

 夏至生まれと覚えてもらうのはどうだろう、と思った。正確には夏至生まれではないけれど、赤毛のアンだって「Annではなく、Anneって呼んで」と言っているし。夏至生まれと覚えてもらったら、毎年、日が延びたのを感じたとき、僕のことを思い出してもらえるかもしれないから。友人の誕生日を覚えるのではなく自分の誕生日を覚えてもらおうとするのはいささか自分勝手かもしれないけれど、僕も努力をするので許してほしい。嘘じゃない。別々の道に進んでも、仲良くし続けられるなら、この上なく嬉しいから。

 だから僕のことは夏至生まれと覚えてほしい。そして毎年、日が延びたのに気づいたら僕のことを思い出して。

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