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【エッセイ】あのとき・あれから・これから(初稿:2021年2月)

当時の私は、産後2ヵ月と9日目、上の子は1歳9か月だった。年子で大変だからと、市内の実家に長めの里帰りをしていた。しかし、本震で電気も水道も止まってしまったので、翌日には水道の被害だけで済んだ自宅へ戻ることに。しばらく留守にしていた自宅は散らかってはいたものの、夜も電気が点く。テレビも見られるし、携帯電話の充電も可能だった。

よちよち歩きの娘と、首据わり前の両手抱っこが必要な息子を連れて、オムツ・飲用水・食べ物などを求めてスーパーまで何時間も歩いた。やっとの思いでたどり着いても、何が買えるかは分からない。それでも、疲れて泣き続ける子どもを連れて、整理の列に並ぶしかなかった。

産後の身体にはかなりこたえたが、「この子たちを守れるのは私しかいない」と気持ちを奮い立たせた。周囲の大人はみな、自分の生活を確保するのに精一杯なようで、幼子2人を連れた母の姿など、視界には入らないようだった。

当時は、今のようにリアルタイムな情報をインターネットから得られる状態ではなく、ほとんどテレビに頼るしかなかった。悲惨な現状ばかりを映し出す報道番組を、幼い子どもの目や耳に入れたくなかったのが本音だが、それでも見ざるを得ない。そもそも、子ども向けの明るい番組は、皆無だった。
そして、そんな生活の中に、ふいに飛び込んできたのだ。「福島第一原子力発電所が危ない」という情報が。

それからの記録は、私にはまだ感情抜きで語ることはできません。大きな不安を抱えながら、様々な選択・行動を繰り返してきました。福島から避難する、という選択肢も挙がったけれど、自分の家族や生活のことを考えると、どうしても、決心はつきませんでした。

当時の選択が正しかったのか否か、答えはきっと何十年経っても出ないでしょう。子どもたちには、自身が乳飲み子のときに起きた出来事について、話すときがくるのかもしれません。冷静に話せるといいのですが。

「あれから十年」が経ち、私を含む多くの人のなかから、当時のような大きな不安はなくなっています。しかし、私たちの被災・原発事故はまだ終わっていません。

子どもたちは2年ごとの甲状腺検査と、内部被ばく検査を行っています。震災後に産まれた子どもにも、任意検査実施の通知が届きます。

我が家の小さな庭には、今も除染廃棄物が埋まっています。学校や公園などの公共施設では、昨年やっと搬出が行われました。しかし、その行先は「中間貯蔵施設」。震災から10年が経ってもまだ、身近なところに原発事故で降り注いだ放射性物質の爪痕が残っているのです。

「最終処分場」が作られるのは、いったいどれだけ先の未来なのでしょうか。それを作り、管理するのは誰でしょうか。産まれる前から原発がある、私たち世代?生まれてすぐ、あるいは出生前に原発事故が起きた、子どもたち世代?

なぜ、行き場のない放射性廃棄物を、私たちは未だに排出し続けているのでしょうか。いま快適に暮らしているこの環境は、何かの代償のうえで成り立っているものなのだ、ということを「あれから十年」を機に、再認識しています。

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