喜多ちゃんと同レベルの演奏技術を持つ後藤一人の言い分

『ぼっち・ざ・ろっく』大変面白く観ました。

ヒロインの後藤一人(ぼっちちゃん)に感情移入する人も多かったでしょう。コミュニケーションは誰でも悩むしね。

後藤一人はソロならめっちゃ上手い女子高生ギタリストですが、バンドでの演奏になれておらず、酷いコミュ障も手伝って力を発揮できません。天才でさえ、他人との協調なしに力を発揮できないというのは示唆的ですね。

話は変わりまして、喜多ちゃんというキャラも出てきます。この子はぼっちちゃんとは違って演奏能力はバンドで一番低いですが、コミュ力の塊です。この子も必死で努力してバンドに食らいついていくのですが、そこも見どころです。

さて、世の中には日本社会は就活などでコミュ力が重視されてクソだ、ということを言っている人がいます。

彼らが言いそうな、日本がだめになった理由はコミュ力重視だったからだ、ということの真偽はわかりませんし、興味もないのですが、私自身は何度も書いているようにほとんどの仕事は自己完結しないので他人とコミュニケーションをとる力はめちゃくちゃ大事だと思います。

その一方で、本当にソロでなら天才的な力が発揮できるなら、コミュニケーション能力を軽視してもいいと思います。問題はそれを言っている人が本当にソロでなら超一流と言えるような何かを持っているのかということです。そんな人はめちゃくちゃ希少なんじゃないかなと思いますけど、みなさん、どう思いますか?

そういう与太話って、ソロの実力は喜多ちゃんで、コミュ力はぼっちちゃんみたいな人が現実逃避して言ってませんかね。

コミュニケーション能力と何らかの技能はトレードオフ関係ではありません。なぜ、一方が評価されていることが、他方が評価されないことになるんでしょうか。

さらにいえば、『ぼっち・ざ・ろっく』では喜多ちゃんもぼっちちゃんもそんな不遜なことは考えてもいないのです。

喜多ちゃんは、自分がコミュニケーション能力があるから技術が低いのは許されるなどとは微塵も思っていません。めちゃくちゃ練習しています。

ぼっちちゃんも自分はソロでならうまいからコミュ力はなくていいと思っていません。バンド(チーム)としてパフォーマンスを発揮することをすごく大事に考えています。

ぼっちちゃんも喜多ちゃんもかわいいからね、憎たらしいことは考えないのです。

まあ、創作のなかとはいえ、目的を達成するために頑張る姿は感動的ではありませんか。

トレードオフ脳の人は、パフォーマンスがどう出せるかではなく、どんぐりの背比べで自分が評価されることを考えすぎではありませんかね。卓越を追い求める姿に比べると、ちょっと醜い。

チームパフォーマンスではなく、自分が評価されることを優先している限りにおいて、たとえば会社がその人に対して採用面接で低い評価をするのは当たり前でしょう。そんな承認欲求だけの人欲しくないもの。

不平を言っている人の相手は、コミュニケーションだけが上手ではなくて、基礎能力も高くてコミュニケーションも上手な人ではないと言い切れないはずです。

確かにその人たちには専門性はまだないかもしれないですが、不平を言っている人の専門性も素人に毛が生えた程度だったりしませんか? 金が取れるレベルでしょうか。自分に厳しい目線を持てば、純粋な加点要素が少なくて低評価というのもありがちだと思います。

不平を向ける前に、どうすればパフォーマンスが出せるのかという点に絞って能力向上を図ったほうが賢いと思います。自分の改善すべき弱点を放置して、他人の責任にすり替えるのはせいぜいが幼児性で、建設的では全くありません。ぼっちちゃんに共感するのは良いですが、彼女らは自分を甘やかしてはいないのです。


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