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なぜ人は他人の行動を掌握したくなるのか――ダン・アリエリーほか『「幸せ」をつかむ戦略』レビュー①

(※この記事は2020/03/16に公開されたものを再編集しています。)

不安は見えるが先行きは見えないこと

 働き始めて数年すれば、転職してから数年経れば、それなりに仕事に慣れ、業界の雰囲気がわかり、同僚の仕事の様子もわかってくる。生活のリズムが出来上がり、以前ほど日々の暮らしで周りを見る余裕がないわけでもない。失敗はあっても、仕事にそれなりの自負が出てきたり、自分なり達成感を味わったりすることもある。

 他方で、たとえ楽しさを感じていたとしても、こうした生活があと数十年は、続くんだという事実がひどく痛切に感じられ、その重さが堪えきれなく思うことがある。疲れて夜遅く誰もいない部屋に帰るとき、疲れて過ごす週末にひどくパートナーに気を使っていることに気づくとき、愚かな上司に不条理を強いられたとき、疲れを癒すためだけに休みを使うとき、「なんでこんな風になったんだっけ」と、ふと口にしたくなるかもしれない。

 そういうとき、頭をもたげているのは、見えてしまった自分の生涯年収、反復する生活の単調さ、人間関係の不条理、孤独感、そして、これらの不安要素と付き合い続けて迎えることになる老後の不安だろう。誰が悪いわけでもないのに、漠然と息苦しい。生涯年収や、勤め先の不安定さ、健康面での懸念など、人を不安にさせる要素ばかり、拡大鏡を使ったように先が見通せるからこそ、かえって自分の生活は、複雑で辛く、先行きの見えない不透明なものに思える。

他人をコントロールしたいという欲望

 今回の書評で取り上げるのは、富永朋信によるダン・アリエリーへのインタビューとコラムから成る『「幸せ」をつかむ戦略』(日経BP)である。正直、字と余白が不必要に大きく感じられるし、執拗に挟まれる名言風のページは煩わしい。レジュメ風コラムも掘り下げが甘く感じられ、かえって消化不良を高める。とはいえ、富永がアリエリーから引き出した 知見そのものは、非常に有意義である。(なお、部分的に自然な表現に改めている。)

 いくつも興味深い論点 はあるが、先行きの見えない時代に前景化するのは、コントロールの欲望である。書評ではこれを軸にしよう。行動経済学者のアリエリーは、こう口にする。

政府でも企業でも、多くの場合、生産性の低い尻尾の部分についてひどく心配します。それで「人にだまされたくない。人がお金をもらっておいて、正しい仕事をしないのは困る」と言う。怠惰な嘘つきが生産ラインで怠けるのを防ぐ手順はたくさんありますが、実はそうした手順は本当に優れた人材が活躍することも防いでしまうんです。(pp. 129-30)

アリエリーの知見に私なりに補助線を引くなら、そこには、「怠惰」や「フリーライダー」に対する怒りにも似た感情が存在している。怒りの感情は、見通せない時代にあって、自分たちも苦労している(いた)のに、それに値しない(と感じられる)人が利益を得ることに対する過剰な反応として生じる。

 多くの人が経験していることだろうが、不安は怒りへと容易に転化する。アリエリーは、こう続ける。

〔もしあなたが私の部下で、私が〕あなたを信用していなければ、「3ドル以上の経費はすべて報告書を書き、〔出張の際には〕どこそこへ一緒に行った人の写真を撮ってこなければならない」と言うでしょう。この手続きは時間がかかるだけです。つまり、官僚主義がやっていること、言っていることは、「絶対にズルをしてほしくない、そのためならこの制度全体のコストは払ってもいい」ということです。(中略)けれど、信頼の欠如はモチベーションという代償を伴うと思うんです。問題は、この代償が見えづらいことです。誰かが私たちを裏切ったときには目に見えるので、止めなければならないと思う。けれど実際には、官僚主義は知らずのうちに組織全体が好成績を上げる能力を奪っている。(pp.130-1)

怠惰や裏切りへの心配は、一定の理があるものの、小ずるい人間や怠惰はどんな集団にも常に存在するし、ゼロにはできない。つまり、怒りの直接的な発散は、「いつまた裏切られるか」という不安を消すわけもなく、対策にもかかわらず不正は生じるのだ。それに、アカウンタビリティ(説明責任)だってある。そこで、さらなる対策を外付けする誘惑に駆られる。対策が講じられ、また別の証拠が要求されるのだが、さらなる対策にもかかわらず……と、以下同様。

怒りの官僚主義――説明責任とエビデンス

 このように、不正を許さないという感覚は、部下への「コントロール願望」をもたらす。 しかし、そこから生まれるのは、往々にして、実際の防止に必ずしもつながらない謎の事務作業である(出張証明としての写真は、絶対的な証拠にはなりえなかろう)。

 しかし、さらに悪いことに、私たち人間には、変化に慣れる力がある(p.33)。走り込みを続けるうちに、つらさに慣れてつらく感じなくなって、より遠くまで走ることができるし、パートナーの喪失で自分は永遠に惨めだとつらく感じられても、次第にその状況に慣れて、生活が上向きになることもある。慣れは悪いことばかりではないが、良いことばかりでもない。人は、馬鹿げた状況にも慣れてしまえるからだ。

 私たちは、コントロールの欲望を抱くことに慣れてしまう。私たちは、部下を、相手を、パートナーを、自分の感情を、自分の人生のできるだけ多くの要素を、目の届くところにおいて掌握したいと思っている。彼らを信用しきれないから、管理下に置きたいのだ。人は否定するかもしれないが、自己啓発本、性格診断、占いがこれほど跋扈し、「人間関係のうまい乗り切り方」を謳う社会で、それを否定するのは空々しいと私は思う。

 そして同時に、私たちは管理されることに慣れてしまっている。官僚主義が煩雑であっても、目の前の一瞬を堪え、不条理に思われる作業を遂行しさえすれば話は終わるし、何よりいつものことだからと我慢することに慣れている。疑われ、不必要なまでに「根拠(エビデンス)」を求められることを、何とも思わない。根拠として提出するものが、実際には根拠として機能していなかったり、それが「怠惰」や「フリーライダー」の防止につながっていなかったりしても、どうでもいいことだ。要求する側も、提出する側も、疑う側も、疑われる側も、どうでもいいのだ。エビデンスを求め、提出され、確認するという事務作業のコストが大きくとも、誰も気に留めない。そして、こうした現状は、他人を管理したいという私たちの不安に由来しているのである。

②に続く

2020/03/16

著者紹介

谷川 嘉浩
博士(人間・環境学)。1990年生まれ、京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人文学連携研究員、京都市立芸術大学特任講師などを経て、現在、京都市立芸術大学デザイン科講師、近畿大学非常勤講師など。 著作に、『スマホ時代の哲学:失われた孤独をめぐる冒険』(Discover 21)、『鶴見俊輔の言葉と倫理:想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学:ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』(勁草書房)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)など多数。

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