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自分の頭で考えないための哲学(後編)

(※この記事は2019/07/19に公開されたものを再編集しています。)

哲学が蓄積してきたもの

 では、哲学の蓄積とは何か。それは、哲学の歴史、哲学史だ。書店で適当な哲学の入門書を手に取ったなら、大抵、哲学史の一部をかいつまんで紹介する本だというくらい、哲学と哲学史は切り離せないものと理解されている。

哲学は、ソクラテスやプラトンに始まり、軽く2500年の歴史がある(哲学の伝統を西洋に限定せねばならないとも、彼らが唯一の起源だとも考えていないが、ここでは話を単純化しておこう)。それゆえ、哲学史の名の下に、様々な地域や時代の思索が、2500年分積み重ねられている。

 私たちは天才ではない。周りの人よりも少し突飛なことを思いついたり、雄弁に話すことができたり、調べ物や話の整理がうまかったりするのかもしれないけれど、それだけでは天才とは言えない。

哲学史に残る人たちは、文句のつけようのない天才だ。彼らは、同時代の天才たちの競争を勝ち抜いただけでなく、メディア戦略にも勝って「正典」となり、後世でも繰り返し読み直され続ける地位を得ている(例えば、哲学史には女性や有色人種がほぼ登場しないなど、“勝ち抜き”の条件には様々なバイアスが存在することにも注意されたい)。

哲学史は、天才たちの問題解決の歴史である

「哲学」と聞くと、「小難しい」「抽象的」「ようわからん」といった感想が先立つのではないだろうか。けれど、哲学者は、意味もなく抽象的なことを考えたわけではない。

どれだけ抽象的に思えたとしても、哲学者本人が普遍性を志向していると述べていたとしても、哲学の議論はすべて、当時の切実な問題に対する応答にほかならない。少なくとも、哲学書をそうして読むことは常に可能である。

要するに、哲学史は、天才たちによる問題解決の歴史なのだ。天才たちが提示した問題解決の中では、様々なアイディアや有用な視点が試されている。凡人にとって、それは知恵の蓄えられた道具箱や貯蔵庫のようなものだ。釘を打つためにハンマーを、お腹を満たすためにブラウニーを手に取るように、必要や目的に応じて、そこから道具を選び出せばいい。

凡人である私たちは、天才の議論から思考の道具を借りることで、森を歩く手がかりを手にできる。それは、天才そのものにはなれずとも、その人たちの頭脳を間借りすることができるということだ。天才たちの視界をジャックすることで、彼らなら森から何を読み取り、何を手がかりとして、どう歩くのかを想像していくのだ。

ランチの言葉で

とはいえ、ここでは、古代から順番に哲学の議論を紹介するようなことはしない。そのすべてが、専門的な哲学者以外の人にとって興味深いというわけではないし、そのすべてを知る必要もない。そもそも、すべてを知ることは専門家にすら困難だ。

自分の頭だけで考えず、先人の頭を間借りしながら考える。手ぶらでなく、手がかりを使って考える。そうした転換のきっかけになるように、このコラムでは、ちょっとしたエピソード、興味深い取り組み、最近のニュース、新しいテクノロジーの動向などを切り口に、哲学史に残る天才たちの思考の一部を伝えていく。それも、ランチを食べながら話すくらいの言葉遣いで。

ジャック・ランシエール(1940-)哲学者

ジャック・ランシエール、梶田裕・堀容子訳『無知な教師』(法政大学出版局 2011年)

ティム・インゴルド(1948-)社会人類学者

ティム・インゴルド、工藤晋訳『ラインズ 線の文化史』(左右社 2014年)

2019/7/19

著者紹介

谷川 嘉浩
博士(人間・環境学)。1990年生まれ、京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人文学連携研究員、京都市立芸術大学特任講師などを経て、現在、京都市立芸術大学デザイン科講師、近畿大学非常勤講師など。 著作に、『スマホ時代の哲学:失われた孤独をめぐる冒険』(Discover 21)、『鶴見俊輔の言葉と倫理:想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学:ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』(勁草書房)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)など多数。



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