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若手哲学者の贈与論を読み解く――近内悠太『世界は贈与でできている:資本主義の「すきま」を埋める倫理学』レビュー

(※この記事は2020/05/29に公開されたものを再編集しています。)

交換と贈与という関係性

 この本で広く用いられる対比がある。交換と贈与である。それは、ひとまず「モノをやりとりするときのあり方」の違いを指示するためのものだが、次第に、「人としての世界や他者との関わり方」の違いを指示するものに変わっていく。順を追っていこう。

 交換の典型とされるのは、もちろん商品交換、市場の売買だ。コンビニでは誰が相手でもマニュアル通り接客し、誰であれ定められた価格で売って、形式的なやりとりをする。これは、他者とのつながりを生みださない、心の交流なるものがない、それゆえに開かれた、「さっぱり」したやりとりだと著者は言う。そこでは、即自的な返礼(具体的には代金)が前提とされている。いずれにせよ、「いつでも、どこでも、誰とでも」成立するという一般性と形式性で特徴づけられるという点をおさえておけばよい。

 それに対して、贈与は、プレゼントを想起すればわかるように、「今だから、ここだから、あなただから」行われるコミュニケーションであり、返礼を必ずしも要求しない。内心の打算を脇に置くなら、プレゼントは、ただその人への感謝や祝福の思いを込めて、その人からのリターンの期待なく行われるものだ。他方で、贈り物の受け手は、贈り物の送り手に対して、何か負うものを感じてしまう。ある種の負債感である。それが次なる贈与へとつながることもある。

秘密とサンタクロース

 ある哲学者が「秘密」についてこう語っていた(それが誰だか忘れてしまったが)。秘密は秘密として秘匿されねばならないが、秘密があることそのものは隠されてはならないという意味で、秘密は不完全な状態に留め置かれる必要がある。秘密が秘密である以上、そこに秘密があるということは誰かにはわかるようになっている、と。

 著者は、本来的な贈与においては、逆説的なことに、送り/受け取る関係性が “不完全”でなければならないと指摘する。曰く、送り手は送り手への負債感を抱かせないために送り手であることを秘匿せねばならないのだが、理想的には、その送り手が誰だったのかを受け手が、しばらく後に気づかねばならない。これは、上で紹介した「秘密」をめぐる議論を思い出させる内容ではないだろうか。

 著者が本来的な贈与として持ち出すのは、贈与者が「サンタクロース」という架空で抽象的な存在者の仮面を借りることで成立する、保護者や親と子どもの間にある馴染み深い贈与である。こうした「贈られたことを事後的に気づく」という時間差が、本来的贈与を特徴づけていると著者は指摘する。

日常は誰かが維持してくれている

 ここからタイトルに示された視点を理解するのに、高いジャンプは必要ない。世の中のすべては、人知れず誰かの手によって作り上げられており、私たちは、そうして誰かに贈られたものたちに取り囲まれている。

 私たちは、日常を忙しく生きる中で、そうした「贈与」で取り囲まれているという事実を忘れてしまう。だが、あるとき名も知らない誰かの支えによって生きていることを思い出すということがありうる。それが、「世界は贈与でできている」という言葉のニュアンスである。

 著者は、自分の知らない誰かが社会の安定性を慎重に維持しているという事態に注目し、その誰かのことを「アンサング・ヒーロー」と呼ぶ。歌われなかった英雄が、この世界の日常を何とか安定させ、成立させているからこそ、世界は回っているのだが、世界のほとんどの人は、その安定性が誰かによって贈られた贈与であることを忘れているのだ。

世界は誰かの仕事でできている

 この議論に触れたとき、同居人がいた頃を思い出した。その時期、夜中に散歩しながらまだ灯りのついている窓を眺め、「世の中にあるものって、全部誰かの仕事の結果なんよな」と語り合ったことがある。本を例にとれば、著者や編集だけでなく、製紙やその原料、本の帯も、売り文句を考えたものも、配色やレイアウト、タイポグラフィも、ウェブサイト更新も、宣伝ツイートも誰かの仕事である。広告や流通のプロセスにも、どれだけの人が関わっているだろうか。

 世界は仕事でできている――そう想像することは、心を揺さぶるものがあるし、自分が「たった一人の意志と責任において行動している」という幻想を壊してくれる点で、大きなメリットがある。

理論構築上の不備と、贈与の厄介さ

 とはいえ、本書にはいくつか重大な疑問も出てくる。テクニカルな側面から指摘しよう。ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論、アブダクション(後戻りの推理)に相当する議論、T. クーンの科学革命論などの無数の補助線が、上で再構成した贈与に関する本筋の議論に、何か理論的な貢献していると私には思えなかった。もちろん、一応の説明可能ではあるが、なくて成立しているし、ない方がわかりやすいのではないか。

 それ以上に問題を感じるのは、贈与について著者が少し素朴に思えることだ。「他者から贈与されることでしか、本当に大切なものを手にすることができない」(p.22)と著者は指摘する。しかし、贈与には厄介な側面がたくさんある。例えば、贈与はとても面倒で、人を蝕みかねない側面がある。著者自身が岸田秀の母子関係を引いているように、いわゆる「毒親」問題は、贈与の悪しき側面を蒸留したようなところがあるだろう。贈与の両義性を掴むような姿勢の方が望ましいと感じた。

偽善を指摘する危険性

 加えて、本来的な贈与へと至るために、「偽善」「自己欺瞞」(pp.42-5)などの概念を扱う手つきが素朴であることに問題を感じた。この種の言葉は、それ以上言葉を費やすことを禁止するような、人を黙らせる言葉でもある――リチャード・ローティなら、これを「カンバセーション・ストッパー」と呼ぶだろう。

 「偽善だ」「欺瞞だ」という言葉が、他人や自分に向けられたとき、どのような擁護や反論も実効性を持ちえず、空々しく感じられるのではないか。偽善や欺瞞が、取り出して見せられるものでも、確かめられるものでもなく、疑われた瞬間に、魔女裁判のような証明しようのない罪をめぐるコミュニケーションへと移行してしまう。

 偽善や欺瞞をつく言葉は、批判する者を権威化し、批判される者を黙らせる効果を持っている。それゆえ、著者は「偽善」概念にあまり規範的なニュアンスをもたせるべきではなかったし、こうした証明し得ない純粋さを求める見解を導入すべきでもなかった、と私は思う。

 「哲学書」として書かれた本なので、専門家として縷々批判的なことを一応書いた。とはいえ、哲学であることが前面に出されたものが、手頃かつ手軽な価格で登場し、それも、ビジネスパーソンが読むことを想定しながら提示されていることに、素直な驚きと喜びを感じた。手に取った人は、映画や小説からサンタクロースまでを渡り歩きながら、一つの論点を追いつめていく楽しさを味わってほしい。

近内悠太『世界は贈与でできている:資本主義の「すきま」を埋める倫理学』(Kindleあり)
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贈与と交換については、過去の書評でも扱ったことがあるので、併読されたい。

うしろめたさに付き合えば、世界が変わる――松村圭一郎『うしろめたさの人類学』レビュー①


2020/05/29

著者紹介

谷川 嘉浩
博士(人間・環境学)。1990年生まれ、京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人文学連携研究員、京都市立芸術大学特任講師などを経て、現在、京都市立芸術大学デザイン科講師、近畿大学非常勤講師など。 著作に、『スマホ時代の哲学:失われた孤独をめぐる冒険』(Discover 21)、『鶴見俊輔の言葉と倫理:想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学:ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』(勁草書房)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)など多数。

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