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「思う」と「考える」の違いとは?

皆さん
こんにちは😊

今回は
「思う」と「考える」について、『古事記と言霊』島田正路著から引用して、
皆さんにお届けします🌈

できれば心に余裕がある時に
腰を据えてお読みくださいませ😉

「思考」とは「思う」と「考える」に分けられます。

「思う」とは「田の心」と漢字で書きますが、この漢字が本質を表しています。言靈の原理において、「田」は五十音図を表します。そして言靈一音一音は心でもあるのです。
一方「考える」の語源は「神返る」です。

まずは「考える」とは。

「考える」は多数の似通った経験の記憶を思い起こして、それらの出来事の共通の面は何か、共有の原因は何か、などなど考えます。
一つ一つの経験から、それらの経験が起こって来る初めの原因、法則・原理を求めようとすることです。
多から一(神)へ帰ろうとすることです。
これが、「考える」の語源が「神返る」である理由です。

このような心の働きのパターンを哲学的には「帰納(きのう)法」と呼びます。

そしてこの「考える」という心の働きのパターンは過去三千年間の、主として西洋文明の精神の基礎となって来ました。
現在隆盛を誇る物質科学文明はこの心の働きの所産です。 
西洋文明はこの「考える」ということを基本の精神として物質科学を発展させてきました。

しかし人間の「考える」という心の働きの根本精神には「心の先天構造」があるのですが、これについての明確な回答はありません。

では、「思う」とはどのような働きなのでしょうか?

「考える」ことが昔から西洋文明の基盤であったのとは反対に、「思う」は東洋の文明の基礎でした。
西洋文明の「一である神とは何か」、という問題を暗中模索する「神返る」思考は東洋文明では発達しませんでした。
その反対に「心の先天構造」の内容が遠い昔から人類に伝わる伝統であり、明らかに知られたものであるという立場に立ち、その先天の内容から出て、その原理・法則を人間の実際の生活にどのように適用し、国家や社会の文化を造って行くか、という営みが東洋文明の基本心理でした。

その心の働きが「思う」ことです。このことからも「思う」が「田の心」という漢字で表記されるのは、日本の言靈原理から来ているのです。

哲学的には、このような心の働きのパターンを「演繹(えんえき)法」と呼びます。

東洋で発生した各宗教や東洋哲学は全てこの心の働きの現れです。
しかし、「自明の理」とされた先天構造の捉え方も、厳密に言えばその理解は比喩とか象徴とか、または概念などの理解に留まっています。
比喩や概念による理解は薄ぼんやりしていて、真の認識にはならないのです。

そこで、「心の先天構造」を世界で唯一そのものズバリの把握を完成・実現したのが日本古来の言靈の原理です。

全部で「十七個の言靈」によって把握された「心の先天構造」は、
それを構成している十七個の言靈のそれぞれを自分の心の中で認識すると、人間が人間という種を保つ限り、人種・国家・社会の相違に関係なく、一つの完全な真理として、如何なる時と場所に応じても、人間の文化活動に適用して誤ることがありません。
それは神といい、一といい、事実そのものというものを把握認識し、そこから出発して一切の文化活動を展開することが出来る真理そのものなのです。
正に言靈原理にのみ許された独断場ということができます。

「思う」は「田の心」と書きますが、この「田」の意味や「先天構造」については、
言靈の原理を学びはじめた方は存在はご存知かと思いますが、
「まな靈会」古事記編でさらに詳しくお伝えします🌈

言靈の原理の独壇場と言われる
「先天構造」を知り、
より私の心を理解し、
実践につなげていきましょう😊⛩

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