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マトリックス この世界で目覚める方法 赤い薬を飲むことが意味するものとは

私の好きな映画の一つにマトリックスという映画があります。

とても有名な映画なので、多くの方が観たことがあるのではないでしょうか。

今日はその映画のワンシーンを紹介したいと思います。

このシーンは映画の冒頭のシーンで主人公のネオが現実世界であると思っていた、偽りの仮想現実の世界から、本当の真実の世界に目覚めることになる選択と決断をするシーンです。

自らの意思で赤い薬を選んだネオは、本当の自分の姿と本当の世界の姿、そして戦うべきものの存在を知ることになります。

そして今まで出来なかった事(仮想世界では奇跡)が出来るようになり、退屈とは無縁の人生になるのですが、その代わりに、あまりに劣勢な状況で巨大な敵と戦わなくてはいけなくなります。

味方の中には真実に目覚めたばっかりに、あまりに辛すぎる本当の状況から逃げる為に、偽りの仮想の世界にもう一度戻ることを望む人物も登場します。例え偽りであったとしても、戦いもなく、安全で、快楽と富と名声のある人生に戻ろうとするのです。

映画を観たことがない方は一度映画を観て欲しいと思いますが、クリスチャンになるということは、ネオが選んだ赤い薬を選ぶことに似ている面があると私は思います。

真理を知り、真理に目覚めるということは、決して人生が楽になる訳ではありません。

なぜなら偽りの表面的な安心の世界から抜け出た時に、この地上という現実世界は実は霊的にいつも戦争状態にあるからです。(表面的な安心もこれからの時代は無くなるかもしれませんが、)


聖書には以下のように書かれています。


わたしは敵意を、おまえと女の間に、
  おまえの子孫と女の子孫の間に置く。
  彼はおまえの頭を打ち、
  おまえは彼のかかとを打つ。
[創世記 3:15]

この聖書の言葉は創世記の物語でアダムとエバが罪を犯し、エデンの園を追われ、地上に呪いが解き放たれた時に、神が悪魔である蛇に語った言葉になります。

女とはエバのことです。女の子孫とはイエス・キリストであり、また全人類でもあります。おまえとは悪魔であり、また堕天使と悪霊、ネフィリム(堕天使と人間の混血種)たちであると言えます。

敵意を置く。

つまり創世記の頃から地上に罪の結果、呪いが解き放たれて以来、地上は霊的にいつも戦争状態にあるということです。

霊的世界がいつも戦争状態にあるので、地上ではいつも戦争があり、争いがあり、問題が無くなることはありません。

この地上では一秒たりとも暗闇の勢力が敵である女の子孫に対して攻撃の手を止めたことはありません。

では日本で生きていて、そのことを強く実感しにくいのは何故でしょうか。
一見、表面的には平和に見えます。また戦うべき敵の存在はぼやけて、とても認識するのが困難です。

その一つの理由としては、マトリックスの中の人々がマトリックスの一部となっていることと同じように、何の疑問も問題意識も持たない人々が、暗闇の世界の一部になっているからです。多くの善良な市民にとってはその事実は受け入れることが難しいと思いますが、聖書では以下のように書かれています。



あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。
光の子どもとして歩みなさい。
実を結ばない暗闇のわざに加わらず、むしろ、それを明るみに出しなさい。
明らかにされるものはみな光だからです。
それで、こう言われています。
  「眠っている人よ、起きよ。
  死者の中から起き上がれ。
  そうすれば、キリストがあなたを照らされる。」
機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。
[エペソ人への手紙 5:8,11,14,16]



身を慎み、目を覚ましていなさい。
あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、
だれかを食い尽くそうと探し回っています。
堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。
ご存じのように、世界中で、
あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。
[ペテロの手紙 第一 5:8,9]


このように聖書は、闇から目覚め、悪魔に対抗するようにと語っています。

これはクリスチャンになることも含まれると思いますが、それ以上の意味を持つと思います。

クリスチャンになっても霊的世界に対しては、ほとんど眠ったままの人もいます。そして今も暗闇の世界の一部になっていて、宗教的な活動はしているけれど、本質的には悪魔に対抗していないこともあり得ます。

またクリスチャンではないけれど、霊的世界に対して半分目覚めており、うっすらと見える神の国の為に生きている人もいます。(私はそのような方々がイエスを通して神と和解し、神とのパートナーシップの契約を結び、神の国の支援を更に受けることになる助けをしたいと思っています。)

クリスチャンになるということに対して、神や宗教に頼ることは、弱い者の行いであるとの一般的な認識があるように思います。(確かにキリスト教の中で依存心から盲目的宗教をしている人はいるとは思いますが、)

しかし実際は全くその逆です。

保身も、プライドも、家族も、友も、自分の夢や計画も、
全てを神の為に捨てて、人生を全て捧げて、更にそれでも到達できない、勝利出来ない敵に対して勝利する為に神と契約を結ぶ。

私はクリスチャンになるという事はそのようなものでもあると認識しております。(全ての人がそのような試練を経験するとは限りませんが)

なので映画マトリックスはクリスチャンになるという事に似ている面があると感じたのです。

決して楽になる訳ではない。

しかし自分の本当の姿や世界の本当の姿を知らないまま、
自分を世界で一番に激しく愛する存在と出会わないまま、
そして自らの創造された目的を見いださないままで死ぬ。

これ程に虚しく、本質を逸らされた人生はないように思います。

聖書ではそのことを 罪 と言います。(罪の語源は的外れな人生を意味します)

イエスはその罪を取り除き、暗闇の牢獄で囚われていた私たちを解放し、暗闇に勝利する者として召して下さいました。

決して楽ではないけれど、有り難い(難が有ると書いてありがたい)人生です。

そしてエキサイティングで感動的で濃厚な人生です。

その映画の主人公は皆さんです。

そしてその映画の脚本を書いたのは神です。

次回のアルファコースに参加し、次に赤い薬を選ぶのはあなたです。


日本が暗闇に勝利する時代の始まりです。






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