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二零一零年 五月六月のこと 2010/2018

高校生から大学生の頃にかけて更新していたはてなダイアリーからのアーカイブです。1998年のシングル「春にして君を想う」以来表立った活動がほとんどなかった小沢健二の復活コンサートに念願かなって参加したときのブログで、渋谷系ブームの頃の最年少世代が大人になって、やっと生歌が聴ける場に間に合ったという喜びだけで書いたというライブレポです。15年近く経って読んでみるとさすがに恥ずかしいですね。しかもテンションが今とあまり変わらないというのがなんとも……。その後、2018年の「春の空気に虹をかけ」ツアーの大阪城ホール公演に遠征したとき、夜行バスを降りてすぐに新梅田のマクドナルドで朝マックを食べながら、8年前の文章を引っ張り出してきてnoteにアップしました。そんなことも今では良い想い出です。

それからさらに6年後、2024年に文章を書く細々を仕事をしている世界線の真鍋新一

 小沢健二、13年ぶりの全国ツアー「ひふみよ」。先日の福岡サンパレス公演で無事に終了したことだし、そろそろここできちんとまとめておかなければと思いました。ネタバレ、僕も大嫌いです。映画の場合は観るか/観ないかの話なのでいつまでもネタバレをしないように書き続けることが要求されますが、音楽……ことにライヴやらコンサートの場合は、ツアーが終ってしまえば、同じ空間は二度と再現されることがありません。「楽しみがなくなる。喋るんじゃねぇ」から、一瞬で「早く教えろ。記録に残せ」に切り替わるこの不思議。なんとなく理不尽だよなぁ、これ。とは思いつつも、今回初めて長いライヴレポを書いてみることにしました。

 さて、僕個人の生活の情報を極力廃したこのブログの性格上、今回も批評的な目線に絞って語るべきなんですが、このコンサートに関しては、いろいろと自分自身と切っても切ることができない、特別なコンサートになりました。そういう訳で、コンサートの感動をより身近に感じてもらうために、「1 /観客全員」である僕の個人的な想い出から始めてみたいと思います。ひと通り書き終えてみてから、ちょっと検索して他の人のライヴレポをさらっと読んでみたんですが、ほとんどの人がコンサートの内容とは別に、それぞれの想い出を引き合いに出しながら今回の感想を語っていました。考えることはみんな同じなんですね。次のパートは自分のためだけに書き残しているだけなので、コンサートの内容が知りたい方は丸ごと読み飛ばしてくれて大丈夫です。

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 去年の9月、東京芸大の文化祭で小西康陽のDJを見てから、改めてあの頃、まだ僕が音楽好きを自覚していなかった頃——90年代の曲を意識的に聴くようになった。そんな中でも、いわゆる渋谷系と呼ばれているピチカート・ファイヴ小沢健二との再会はとりわけ感動的なもので、ちょうど時を同じくして卒論の取材のために初めて関西へ出かけたとき、「ぼくらが旅に出る理由」を聴きながら、夜行バスで東京を後にした。真っ暗になったバスの中で目を閉じながら、柏原崇杉本哲太の怖い先輩に叱られつつ寿司職人の修行をするドラマの主題歌だったよな、とか、清水美砂山口達也のドラマは夜10時からで、起きていたら親に怒られる時間だったけども、どうしても主題歌が聴きたくて、あれこれと理由をつけて夜更かしして聴いていたよな、とか、安室ちゃん鈴木蘭々が出ていた頃の『ポンキッキーズ』に、ある日突然シロクマの格好をした小沢健二がゲストに登場して、「オナラで月まで行けたらいいな」、なんていうけったいな歌を歌った回があったよな、とか、「ちびまる子ちゃん」は毎週見ていると、「小枝」のCMには女装した小山田圭吾が、「ダース」のCMには小沢健二が出ていて(両方とも森永の商品だ)、今考えるとフリッパーズ・ギターが日曜の夜に毎週ニアミスしていたんだよなぁ、とか、「履いてないのに気づいて~、そのままモザイク~♪」(「カローラⅡにのって」の替え歌で、車から降りたおしゃれな女性が実はノーパンで、カメラが引くと股間にモザイクがかかっている映像が流れる)という『ボキャブラ天国』のしょーもないネタがあったよなぁ、とか。とにかくいろんなことを思いだした。そんなとき、タイミングを測ったように「ひふみよ」ツアーの情報が入ってきた。忘れもしない、明けて早々の2010年1月16日(土)。札幌市民ホールが公式サイトでコンサートの日程をうっかり明かしてしまい、それをめざとく見つけたファンから噂があっという間に広がり、ネット上は騒然となった。間もなく日程の情報は消されてしまって、まぁきっとなにかの間違いだろうということで騒ぎは落ち着くかと思われたが、それから3日後の2010年1月19日(火)、突如として「hihumiyo.net」なる小沢健二の公式サイトが登場した。

 大学の卒論と就職のあれこれでまったく身動きが取れず、とうとうチケットを確保できぬままツアー初日を迎えてしまった。「社会人特権を活かしてヤフオクで15000まで出すぞ!」などと友人に豪語していたくせに、神奈川県民ホールから中野サンプラザにかけては、大嫌いなmixiのチケット譲りますトピに張り付く始末。チケットを持った人の新しい書き込みを見つけるやいなや、あらかじめ用意していた文面を送り付ける。おそらく体感としては一枚のチケットに対して20人くらいはいたのではないか。作業はまったくの徒労に終わった。トピックに書き込んだ方も予想以上のメッセージの数に驚いたのか、結果なども一切書かないまま書き込みごと消えてしまうというパターンも少なからずで、あっと言う間に6月9日。追加公演の渋谷・NHKホール当日がやってきた。

 チケットもないのに、2日も続けて同じアーティストのコンサート会場に行くなんて思っても見なかった。でも、この機会を逃したら二度と見られないかもしれないから、もう手段を選んでる場合じゃない。それでも見られないなら諦めるしかないけれど、まだ最後のチャンスは残っている。ヒッチハイクみたいな真似をして代々木公園に立ち、原宿駅から歩いて来る人たちに、チケット余ってませんか!!!……とは叫ばない。恥ずかしいから。スケッチブックを開いてニヤニヤしてるだけ。あぁ、これはジャニーズのコンサートがあるときに後楽園の駅でよく見るやつだ……なんて思いながら。

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 ここからがコンサートの本編です。初めて見た9日の感動と、少しは落ち着いて見られた10日の考察をミックスしながらお届けしたいと思います。

 開演時間から実際の演奏開始まではずいぶんと開きがあるということを事前情報で知っていたので、開演のベルが鳴ってからも俺は隣の席の人たち(その場で知り合い仲良くなったのだ!!)とおしゃべりを続けていたところ、突然場内の電気がすべて消えた。視覚情報を突然断たれた周囲の嬌声は物凄く、何が起こっているのか把握も出来ないまま会場は興奮状態に突入した。「今からコンサートが始まる……!」そんな我らの気持ちを祝福するように、「あの手つき」でギターをジャカジャカと掻き鳴らす音が会場に鳴り響いた。それとほぼ同時に無邪気で純粋な「あの伸びやかな声」も。

「▲☆=¥!>♂×&◎♯♪£~!!」

 いる。確かにいる。今まで一切その姿を見せようとしなかったその人が、暗闇の向こうで確かに存在している。声がする。確かにあの人の声がする。なにを言っているのかまったくわからなかったが、数日後、その場にいた別の方と話をする機会があり、「と~きょ~、し~ぶ~や~!」と言っていることがようやく判明した。

「ひぃっ!ふぅっ!ひーふーみーよっ!」

『流れ星ビバップ』

 聞き込んだイントロが暗闇の中で鳴っている。きっと音がするほうがステージなんだろう。本当になにも見えない。その第一声を聴いたとき、「まさかこの人の歌を生で聴くことができるとは……」いう感慨に耽ったのは実はほんの一瞬で、「声低っ!」という違和感の方が大きかった。同じ人間でも十年すれば声が変わるのは当たり前だが、僕の頭の中にいるのは13年前の彼だ。13年後にいきなり飛ばされたような気持ちになって、とにかく驚いた。なにせ真っ暗闇だったのではっきりとは覚えていないが、目の前で何が起こっているのかまったく理解できてない僕の目は全開。おそらく真ん丸だったはずだ。会場はもちろん総立ち。しかしあたりは真っ暗闇。この喜びをぶつけるべき演者の姿は、ない。

 「『流星ビバップ』を演奏しないわけにはいかないでしょう」と彼が公式サイトの文章に書いていたのを思い出し、先頭打者に予告ホームランを打たれたピッチャーのような気分だった。声はすれども姿は見えず。彼を認識する唯一の手がかりである声を便りに、一秒も聞き逃すまいとじっと聞き耳を立てる場面のはずだが……口が動いた。歌に釣られて口が動いた。しかもそれは僕だけではなく、周りもみんな歌っている。控えめに言って簡単な歌ではない。第一早口だし、息継ぎも難しい。「ヘイ!ヘイ!ヘイ!ヘイ!」と、すぐに裏拍の手拍子と掛け声が続くが、一番が終わったところで曲は突如失速……。

 音のするほうから、豆電球の明かりが小さく光る。声の主の顔はまだ見えない。

「2003年・・・」

 彼が静かに語り始めるが、歓声は止まない。

「2003年・・・」

 もう一度彼が言い直した瞬間、ようやくみんながハッと我に返ったのか、会場は静まり返った。それにしても静かだ。さっきの大騒ぎが嘘のような静寂。

 2003年にニューヨークを襲った大停電の夜の話を引き合いに出しながら、彼は「暗闇の中で、大勢の人で経験したこと、聴いた音楽、歌った歌は決して忘れることはない。」(うろおぼえ)と語った。

 それがあらかじめ用意された「台本の朗読」だったのはすぐにわかった。みんなは彼の声を、やっと落ち着いて聞いた。

「ひぃっ!ふぅっ!ひーふーみーよっ!」

 不意討ちのように歌の続きが始まり、またまた観客は条件反射で裏拍の手拍子と掛け声を送る。この慌ただしさよ。

 1曲目は大盛り上がりで終わったが、真っ暗闇はまだ続く。そろそろ前の席の人を蹴り出したり、荷物に足を引っ掛けて転んだりする人が出るんじゃないかしら。間髪なく2曲目が始まる。『ぼくらが旅に出る理由』

 あまりに演奏が素晴らしいので、僕はすでに打ちのめされていた。「もう最後まで暗闇でも別にいいかな……」とさえ思っていた。あるいはここが、暗闇であったことなど忘れていた人もいただろう。とにかく気分は2003年のニューヨークになり始めた最初のサビに入った瞬間、突然ステージにいっぱいの照明が浴びせられた。11人のバンド、全員集合。だけど、暗闇に慣れた目には、あまりにもまぶしい。ステージは真っ白で、よく見えない。これが13年分のオーラなのか。光と音が爆風のように浴びせされる。彼がようやく姿を現した。当然あたりは大パニック。ポール・サイモンの「追憶の夜」のまるで同じな間奏のアレンジは原曲をなぞりつつも別のフレーズに変わっていたが、そんなことはもはやどうでもよい。

「・・・どうもお久しぶりです」

 10年以上の沈黙を、「お久しぶり」というあまりに短い言葉でまとめると、彼は何事もなくまた朗読を始めた。

「……ほんとだよっ!」

 ファンとはとにかく勝手なもので、本人とはなんの面識もないくせに、こうして劇的なカムバックを眼前に展開されると、長年便りが途絶えていた親友を、再び我が家へ迎え入れるような、そんな気持ちになってしまうものである。

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 かくしてコンサートは幕を開け、基本的にフリートークではない朗読を挟んで、次から次へと名曲が披露された。

 というわけで、どこのブログにも載っているのでいい加減ウンザリかもしれませんが、ここからはこの当日のセットリストを見ながらいろいろとコメントを挟ませていただきます。

ひふみよ 小沢健二 コンサートツアー
二零一零年 五月六月

東京 渋谷 NHKホール
2010年06月09日(水) ←セットリストはこの日のもの
2010年06月10日(木)

01 流れ星ビバップ(1番)
朗読「2003年 ニューヨーク」
02 流れ星ビバップ(続き)
03◎▽ ぼくらが旅に出る理由

朗読「想像力とひふみよ」
04◎◇ 天使たちのシーン
05☆ いちごが染まる
06◇ メドレー:ローラースケート・パーク~東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディーブロー~ローラースケート・パーク

07◇ ラブリー(練習)
イントロで散々会場を盛り上げておいて、英語パートに変わってつけられた新しい日本語の歌詞をレクチャーだけして終了。

朗読「豊かさと大衆音楽」
08◎ カローラⅡにのって
09▽ 痛快ウキウキ通り
10◎ メドレー:天気読み~戦場のボーイズ・ライフ~強い気持ち・強い愛
11 今夜はブギー・バック

朗読「安全」
12◎ 夢が夢なら
13 麝香

朗読「笑い」
14☆ シッカショ節
15◎ さよならなんて云えないよ~メンバー紹介~さよならなんて云えないよ
16▽ドアをノックするのは誰だ?

17◎ ある光
18☆ 時間軸を曲げて
19▽◇ ラブリー(本番)
20 流れ星ビバップ(一番だけ 歌なし)

アンコール:
21◇ いちょう並木のセレナーデ
22▽◇ 愛し愛されて生きるのさ

アンコールⅡ:
23☆ いちごが染まる

☆…新曲
▽…長く演奏された曲
◇…一部歌詞が変わった曲
◎…アレンジが大幅に変更された曲

※朗読のタイトルはこちらで勝手につけました。ただ、朗読の前にタイトルらしきことを言った場合はそれを生かしています。

10日の変更点:
『天使たちのシーン』の前に『青木達之さんに捧げます』と一言。奥さんと娘さんが来ていたらしい。
『今夜はブギー・バック』スチャダラパーが突然登場。smooth rapヴァージョンをフルで披露。またアンコールⅡが無く、スチャダラパーを交えたメンバー全員でステージに上り、軽く雑談とインフォメーションを長めに。バンドのメンバーが控え目に喋る場面も。

Musicians:
小沢健二(vo,g)
中西康晴(key)
中村キタロー(b)
木暮晋也(g)
真城めぐみ(cho)

沖祐市(key)
及川浩志(per)
白根佳尚(dr)

◆NARGO(tp)
◆北原雅彦(tb)
◆GAMO(t-sax)
◆ from 東京スカパラダイスオーケストラ

★朗読について
 世界中を旅しながら感じたことが面白おかしく語られる。文章で読んでも充分に楽しめる内容で、話を聴いているはずなのに、エッセイでも読んでいるような気分になった。内容は2日とも一字一句変わらず。ただの世間話のようなMCならばどうということもないのだけど、曲間の朗読では今回のコンサート、ひいては今回の音楽活動のテーマと言えるような言葉が重みをもって語られ、コンサートがこれまでの音楽活動の総括であることが否が応にも感じられた。

★初披露の新曲3曲について。
 3曲とも確固たるこのコンサートで演奏される意義を感じた。朗読と同じで、活動を休止していた期間に対する彼の返答だと思っている。感じたことは全て個人的な推測の域を出ないものではあるが、話し言葉で語られるよりもずっと説得力があるように思えた。

★『いちごが染まる』
 突然披露された新曲。「新曲です」とボソっと言ってから始まったそれは、歌詞のせいもあるだろう、オーガニックと言えばいいのか。とにかく有機的なサウンドが会場に広がる。音楽的な部分で彼のことがまったく話題に上らなかったころ、彼はとにかく世界中を放浪しているらしいと聞いたが、そういう経験が大きく働いているのではないかと思えた。一聴してとっつきにくいこの感じ、グッとエロく迫った『eclectic』を想起させる粘っこいメロディだ。土の匂いや植物の緑が強調された歌詞は、日本にはない精神がこれでもかというほど盛り込まれている。9日のダブルアンコールで最後にこの曲を演奏したときに、曲の成り立ちについて簡単に説明していたが、まさにその通り。メキシコにいるときに作った曲だそうだ。公式サイトが開いた時点で実はひっそりタイトルだけは端っこに載っていたのだけど、コンサートを見たあとにやっと気がついた。

★『シッカショ節』
 小沢健二、まさかのド民謡。日本のオンド・ミュージックの大家、大滝詠一師匠と比べると、ポップに消化されたとは決して言い難い。初めは「ついに彼も岡林信康の境地に達してしまったか……」と自分の中でも戸惑いを隠せなかったが、何度も歌詞に耳を傾けながら聴いてみると(「もーーーいっかい!」と2度続けて演奏され、他の会場でも2度以上演奏されていたようだ)、人間とその他の動物が共存する社会が描かれた彼らしい曲になっている。『うさぎ!』のキャラクターはイラスト化されていなかったはずだが、キャラのぬいぐるみが出てきて一緒に踊りだしてもおかしくない。いやでもそういうのは『うさぎ!』で言うところの「灰色的」な商業主義なのかな。ここが子供向けコンサートのメッカ、NHKホールでついそんなことを考える。そして2番、「ひふみよ」という言葉が飛び出すに至って、コンサートで演奏されるすべての曲を包みこみ、コンサート全体をひとつのお祭り、盆踊りにしてしまった。「ひふみよ」という声に合わせてみんなで歌い踊る。コンサートのテーマソングと言えよう。基本的にはニューヨークで暮らし、この13年間ほとんど日本の土を踏んでいなかったとみられる彼の郷愁をも感じさせ、聴くたびにいい気分になるのであった。

★『時間軸を曲げて』
 曲名だけさらりと言って始まった新曲。彼のすべての曲を聞き倒した人間でなかったら、新曲だと気づかなかったかもしれない。前の2曲のような大胆な方針転換はなく、収まりがよく自然に聴けた。シティポップなどという曖昧でカッコつけた言葉で音楽を括りたくはないのだが、前二曲とは完全に趣が異なる都会的な音——曲がいつも「街」と共にあった『LIFE』期とタイトなリズムの『eclectic』期が混ざったようなサウンド——はまさしくシティポップ。そこに『犬』や『球体』のようにやさしめ(やさしくはない)な言葉で哲学を語る詞が絡む。これまでの積み重ねを確かに感じる文句なしの名曲だ。本編トリの『ラブリー』はあらかじめ予告されていたお約束だったので、この曲が事実上のクライマックスになる。『ある光』の一節を静かに歌った直後に披露されたのもなんだか意味深。

『いちごが染まる』(日本成分ゼロ)←—————→『時間軸を曲げて』←—————→『シッカショ節』(どこまでも日本)

 新曲3曲を簡潔に関連付けると上の図式になるはずだ。こうすると新曲が3曲である理由。3曲がこの3曲だった理由が見えてくる。日本と世界の精神をそれぞれディープに身につけた彼の13年分の経験が書かせたこの3曲。これらの新曲が、活動を休止していた期間に対する彼の返答だと思ったのはそういう理由による。

★アレンジの変更について
 
エスニックなアレンジになって披露された『カローラⅡに乗って』。公式サイトの文章(うさぎくんと小沢氏の対話)でも暗に批判されていたことを思えば、現在の彼のスタンスとは対極にあるこの曲は演奏されない確率100%のはずだったが、まさかまさか。直前に披露された朗読では、何年も前の中古車を乗り回しているインドの友人の例が紹介され、『カローラⅡ』は覚えやすいCMソングではなく、今でもカローラⅡに乗り続ける人たちへの歌として見事に生まれ変わった。(ところで全然関係ないけど、「ス○ーンスコー○コイ○ヤスコ○ン」や「ドン○コスったらド○タコス」と「そのままドライブー」と子どもがクセになって無意識に唱える。商品の良さよりも語感とタイミングで商品名を叩き込むコマーシャリズムってちょっと怖くないですか?)

 同じように、レゲエのリズムで再構成された『夢が夢なら』。直前の朗読では欧米的資本主義の科学的思考よりも日本古来の植物や小動物との交わりを重んじる考え方が、実は世界のスタンダードなのではないかという疑問が呈された。風鈴の音でも聞こえてきそうな日本の静かな夏らしいピアノのイントロ、花火で遊ぶ彼の映像がスクリーンに映し出された。日本の四季のある日の情景を綴ったこの名曲が、世界的解釈で再構築された。感動的。

 『天気読み』。楽器ひとつひとつのあたたかみをが感じられた原曲のアレンジとは正反対に、ディスコ、テクノ、エレクトロニック、とにかくクールなダンス・ミュージックになった。ちょうど朗読の時にバックで演奏されていた曲(一応新曲らしい)がなんとなく似ていたので、そのまま『天気読み』に移る流れを期待していたのだが、それは見事にハズレ。

 今回のバンドにはストリングスはないので、原曲で弦が入っていた曲は当然アレンジでなんらかのカバーがされなければならない。『強い気持ち・強い愛』『ドアをノックするのは誰だ?』の2曲はイントロのフレーズがそのままシンセサイザーに置き換わっており、流石に弦の不在が感じられた。かつてのツアーでもこういうふうに処理していたんであろうか。音を作ることがいかに繊細で難しい作業なのかを少しわかった気になった。

★選曲と構成について
 曲想や歌唱法がまったく違う異色作『eclectic』から唯一披露された『麝香』。隣で一緒にコンサートを観た方曰く、「『eclectic』はあんまり聴いていない」とのことだった。「彼はだいぶ遠くへ行ってしまったな……」という印象を持ったのは僕だけではなかったようで、ファンにとって『LIFE』や『球体』に比べると少し距離があるらしい。長いブランクを埋めるようなことを決してしなかった『eclectic』の曲が披露されたことで、アルバムとリスナーの距離は随分縮まったのではないだろうか。

 この「ひふみよ」。構成が非常に計算されていたことは言うまでもないのだが、この冒頭の朗読の一件を例にとっても、とにかく観客のコントロールが非常にうまかった。例えば熱狂した客席を急激に冷ますような、一歩間違えるとライヴならではのノリを殺してしまうような演出や曲順もあったが、それはもちろんすべて計算の上。観客は最初から最後まで、気持ちよく笑顔で彼に焦らされ、彼の合図に従った。このようにして、神聖で厳かな一体感、熱く燃える連帯感という相反する2つの空気はしっかりと形作られ、見事に混じり合いながら会場を包んだ。彼は我々との間にはなにもなかったかのように接し、我々もまた同じような気持ちでコンサートを楽しんだ。我々なんて言葉は本当に傲慢な言葉で、他の人の気持ちまで言い切ってしまうのは勇気のいる行為だが、今回だけ、今回だけは自信を持ってそう言える。『今夜はブギー・バック』のあのラップのパートさえ会場のほぼ全員が、そらで一字一句間違えずに声を合わせたのだから。

 『流れ星ビバップ』に始まり、歌なしの『流れ星ビバップ』に終わるこの構成、中途半端な時期にリリースされたあの自選シングル集と同じだ。ベストアルバムの発売延期・中止のすったもんだの末、結局リリースされたのはわずか9曲。選曲から漏れたシングル曲は結果的にレア度が増して入手困難になったこともあるが、ファンのこのアルバムに関する感情や位置づけは、ずいぶんと微妙なものだったはずだ。そのアルバムと同じように、コンサートでも2度目の『流れ星』のときに、彼の姿はなかった。『刹那』というアルバムタイトルは、彼が最初の朗読で強調した「日常と日常のハザマにある一瞬の世界」のことであり、彼がアルバムとこのコンサートでその不思議な空間を作ろうと試みた証でもあった。「ひふみよ」は、ライヴ・コンサートというよりは、新曲を含む2枚組の新録ベストアルバムを今作るとしたらどうなるかという彼の実験であったとも解釈できる。

★歌詞の変更について
 歌詞が変わった。日本語への異常なまでのこだわりは、『eclectic』でリメイクされた『今夜はブギー・バック / あの大きな心』がどのように変わったかを考えればそこまで大きな変化とも言えず、周りが言うほど違和感なく入っていけたと思う。mixiだか2chだかで誰かが言っていた「ネイティブの奥さんの前で、中途半端な英語が恥ずかしいんじゃない?」という説はあり得るんじゃないかと思った。確かに外来語として定着している言葉以外は、ほぼすべて日本語に置き換わっていた。

★総括
 選曲は16年前のアルバムがメインになっていても、歌い直された主義主張にこの13年で変化した思いがギュウギュウに詰められていて、心配するまでもなく2010年の小沢健二だった。むしろ、あの頃同じように歌い踊り、掛け声に到るまでの細部のルールを、まるで申し合わせたようにステージにぶつける我々が、もしかして彼に13年前の再現を迫っているのではないかと申し訳ない気持ちにさえなったくらいだ。『ドアをノックするのは誰だ?』で「ドアノックダンス」ができる、『流れ星ビバップ』を見ないで歌えるくらいならまだしも、スチャダラパーが突然ステージに現れ、『今夜はブギー・バック』がsmooth rapバージョンになったときにもすぐ対応して「スキー!!!」とスチャアニに叫ぶ、『痛快ウキウキ通り』で「うぉぉぉぉぉl!!!!」と叫ぶ、仕舞いには『いちょう並木のセレナーデ』の「夜中に甘いキスをした」のタイミングで「ヒューヒュー!」と声をかけるレベルまで来ると、自分自身熱狂的なファンだけど、ハッキリ言って狂気の沙汰だと思った。これはまた、リアルタイムのコンサートを体験していない僕自身の悔しさの表れでもあるのだが、これもまた、13年という時間が感じられた大きなポイントになった。

 彼の楽曲を当時から熱心に聴いていた人、聴いていたけど今ほど熱心ではなかった人(僕はこれ)、最近初めて知った人、それぞれにあった1997年から2010年までの時の重みが、なによりもこのコンサートの時間を特別なものにしていた。彼が第一声をあげた時に感じたあの不思議な気持ち。歌詞もよくわからない新曲に感じた妙な説得力。

 この「ひふみよ」というツアー自体が、「1997年から2010年の時間軸を曲げる彼の壮大な実験」だったとしたらどうだろうか?

「みなさんがお待ちかねのこの曲は、あと1時間後にやります」
「13年に比べたら、1時間なんかあっという間だよね」
(いずれも『ラブリー』(練習)のときにボソっと言った一言)

 だなんて涼しい顔で言っていた彼の姿を思い出すと、そんな馬鹿げた妄想もあながち的外れでもないんじゃないかと思えるのである。

 最初で最後になるかもしれない生小沢健二なのだから、「懐メロ大会になったって一向に構わないけどね!」というのが確かに観る前の正直な想いだった。まだ何も知らない子どもだった頃の90年代を、大人になって改めて自分の重要な一部なんだと意識して再体験できればそれで良かった。だから、そこにいた「2010年の小沢健二」に対してはもう言うことなしというか、すでに時代と切り離されていた感があったあの時代の音楽を、これからも現在進行形で聴いてもいいのだとお墨付きをもらったような気がした。コンサートの最中、大騒ぎする自分を、もうひとりの自分がものすごく冷静な目で見つめながら、あの時代と現在の距離間隔をあれこれと修正している。そして、その先で身体をくねらせながら歌う小沢健二。きっと、目に見える風景とは別のスリリングな世界がそこにはあったはずで、じゃあやっぱりこれは13年というブランクを最大限に活用した、1回きりのアトラクションじゃん。と、妄想は日を追うごと確信へ近づいているのだけど、本当のことなんてたぶん一生わからないし、でも、でも知りたいのだといつまでも子どものように言い続けるんだろうな、とここで堪えきれず、誰に見せるでもなくまた苦笑いをした。


★最後まで読んでくれた人へ追伸
 以前、バート・バカラックのコンサートを観たときに楽しかったので、コンサートに出かけたときは、必ず開演前にステージの目の前を歩きながら、楽器やら、客席とステージの距離やらを確認することにしている。NHKホールでは、ちょうど2階席のところにPA卓らしきものを発見したので、しげしげと眺めてみた。

 あるチャンネルには「木暮」と書いた紙が貼ってあって、おそらくそこでギターのバランスを調整しているのだろう。これがないとコンサートは成り立たないのだからそんな当たり前のことをオーバーに感動していても仕方ないのだが、重要なのはそこではなくて、機械の真ん中に乱暴にセロハンテープで止められていた、公式のセットリスト。上から布がかけられていたので、上から下まで全部見ることができなかった。会場はすでに神聖な空気があったので、とてもじゃないが写真を撮る気にもなれなかった。しかしツアー終盤からネット上ではあの「朗読のときに演ったあのインストのタイトルはなんだ」とか、「新曲のタイトルと表記はどうなってるんだ」とかいろいろと議論されていたので、今にして思えばやっぱり撮っておけばよかったかなぁと非常に後悔。「いちご」だのなんだの曲のタイトルが書いてあって、確かに朗読パートと思しきなにかが書いてあったような気がするんだけど……

 だれか他に見た人はいませんか?

2024年追記:
 同じ日にこの方もNHKホールにいらしていたようです。


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