▪️コラム▪️

生命の核振動を阻害する、過剰な欲求

俗に言う欲望は、大別すると、二種類に分類される。
一つは、生理的欲求から生じるものであり、もう一つは、精神的欲求から生じるものである。

生理的欲求とは、食欲、排泄浴、 性欲等をさしていう。食欲、排泄浴は、自己の生命を維持するために不可欠な欲求であり、又、性欲は、種の保存のために不可欠な欲求である。生理的な欲求自体には問題ない。むしろ、不可欠な欲求である。

問題は、 生理的な欲求から生じる欲望である。ただし、生理的欲求は、精神的欲求の原因となる場合があり、厳格な禁欲主義者は、生理的欲求の一部をも否定することがあるが、私は、生理的欲求を否定する必要は、 全くないと思う。生理的欲求は、自然な欲求であるし、環境を改善すれば、欲望化するのを妨げると考えるからです。

問題なのは、観念的欲求から生じる欲求である。
精神的な欲望は、観念的な欲望でもある。自己の存在に対する執着が生み出したものである 自我や我執が原因となった欲望である。我執が高じたものと考えたい。それ故に、我執の持つ性格がより強い形ででる。欲望は、自己の像を歪める強い内的な力である。外界からの作用に対する内的反作用である 。
故にに欲は悪である。観念的な欲望には、大別すると生存欲と自己顕示欲、所有欲の三つに大別される。

生存欲をのぞいた、他の欲望は、高じると自己の存在をも否定してしまう。生存欲も時には、結果的に自己否定につながる場合がある 。

生存に対する脅迫は、直接的な形で現れる。飢餓や戦争は、常に、自己の存在と自己善の同一物への脅威として存在する。
そんな極端なものでなくても、自己と自己善は、経済的理由や社会的理由によって圧迫を受けやすい関係にある 。又、生理的な欲求や過失による結果の代償として、自己善は常に危険にさらされている。しかもそれが生きるために行きたいが故に、という自己の生存欲に関わる理由であればある程、自己の行為を正当化しやすいものである。しかし、一度、このような理由で自己の行為を正当化すると 自己善はその存在感を消失してしまう。

生きるという事は、それ以前に自己の存在を前提としており、ただ生きているという消極的な姿勢ではなく、自己を活かさんが為に生きるという強い意志の表れである。生活とはそういう事なのだ。生きる為にという理由は、自己の全人格を否定するような行為を正当化することはできない。キリストは、自己を生かすために十字架に掛かったのだ 。

生きるという事は自己実現の為の前提であって、自己を正当化する為の口実ではない。故に、生存が自己を否定するような形で現れた場合は、これを否定しなければならない。人は、パンのみの為に生きるのではない。

自己が間接的認識対象である故に、自己に対する存在感の強弱は、外界からの反応に頼らざるえない 外界からの反応が弱ければ、自己に対する存在も薄く、自己の存在にも不安を懐く。そこに外界から自己に対する強い反応を望む欲求が芽生える原因が潜む。皆に認められたい、注目されたい、きわだちたい、そんな欲望が自己顕示欲である。もちろん、そんな欲求も、受け取りかた一つでは、自己の向上精神に昇華させることも可能である。だが、人間とは弱いものである。 自己の存在感をより具体的なものとして保証されることを求めてしまう。自己の偶像化である。 存在。存在感をより具体的なものに転化した時、差別や階級が生じる。地位や名誉、名声は、自己の存在感を象微化したものである。自己顕示欲は、 いうなれば、有名に対する欲望である。自己を必要以上に表現、主張する事によって、自己に対する外界の反応を増幅させる事を犯った行動を自己顕示は誘発させる。外界からの反応は、どのようなものでもよい。それはいいものに越した事はないが、 たとえ悪評であっても、自己事が欲はいくらか満たされる。気が晴れればいいのである。自己顕示欲はそういう意味では、たしかにマゾヒズム的である。


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