■コラム■

自由であるか否かは、自己が行為によって表す内面の動機と、自己がその行為を表す場としての外界とのかかわり合いによって問われる問題である。

つまり、行為として表された動機が、外界の諸条件に、どこまで許容されていくかの限度によって、人間の自由は判断される。
そして、自己は行為として表現される内面の動機の究極的な原因であるから、我々が自由について語ろうとした場合、まず、自己の定義をしなければならない。

そこで、ここにおいては、独自性において、自己の定義をする事にする。

■自己とは
第一に、あらゆる行為の主体である。
第二に、自己は認識主体である。
第三に、自己は存在前提であり、認識前提である。
第四に、自己は間接的認識対象である。
第五に、自己は観念的、精神的存在である。

自己とは存在である。肉体は、某体に過ぎない。自己と肉体と混同してはならない。自己は、あらゆる行為の主体である。つまり、すべての行為の発動因でありかつ、主動的、である。また、あらゆる対象に対する認識主体でありそして、地上における唯一の主体である。

すべての行為の発動因とは、あらゆる行為の終極的原因である事を意味し、又、主動体とは、あらゆる行為の決定主、行動主を意味する。決定主、行動主とは、自己が、その存在を自己の肉体の運動を通して、外界へ表現していく際、その運動を実行し、制御していく内的実体を意味し、又、主現体とは、自己の存在を体現できる、つまり、自己の存在を自己の肉体を通して、外的対象が認知できるように体現化、実体化していく事の叶な存在を意味する。
又、認識主体とは、対象認識上において、最終的に対象を認知、識別する内的実体を意味する。そして、このような主体的存在は、自己以外に存在しない。

それが、いかなる外的要因に誘発、触発されたものでも、行為を直接発動させるものは自己である。外的対象や現象を認知、識別するのは、他ならぬ自己だからである。
人に出会い、恋をし、愛に目覚め、愛を知り、その想いを告白し、表現する。そのすべては、誰でもない 自分自身が、自分自身でやらなければならない。他人がいくら食事をしようと、自分の腹がいっぱいになるわけではないし、又、人がいかにすすめたところで、いやなものはいやだ。親がいくら気に入ろうとも、周囲の人間がいくら褒めようと、愛せない人もいれば、逆に周囲の人にいくら反対されても、好きでたまらない人もいる。

そうした行為や想いは、他の人に代わってもらうわけにはいかない。周囲の目を気にしているうちは、本当の愛などわかるはずがない。 結婚という形式が、愛を保証してくれるわけではない。やむにやまれぬ情が、自分をしてそうせしむるのである。
好きになるという事は、身も蓋もなくなる事なのである。そして、自分の幸福は、自分の努力によって、自分の手で掴むものなのである。なぜなら、人間の行為が、全て自己に根ざしており、自己は本来、主体存在だからである。

対象を認識し、最終的に識別するのは自己である。認識主体とは、対象を知覚、認識、識別し、これを記憶する究極的な内的実体である。ただし、自己は、知識や価値観、記憶した内容を意味するのではなく、そういったものを実際に形成したり、実行していく実体をさすものである。この点、混同しないように注意してもらいたい。

認識対象は、常に自己を基本単位としてなされる。故に、公式的な価値観や認識は自己の価値観の総和に過ぎず、常に、相対的なものである。なぜなら、対象認識は、認識主体の相対的位置によって変化するものであり、それを絶対的位置に置きかえることが不可欠だからである。

つまり、 ある任意な対象を認識する際、一定の視点から対象の総体を認識することができず、どうしても視点をずらさなければならない。固定した視点によって対象を識別できるといった絶対的な位置がない以上、認識は相対的なものとならざるをえない。

そして、認識が相対的である以上、そこから派生する価値観も相対的なものとなる。それ故に、人間の生み出した科学は、相対的なものである。


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