▪️自信という確かさの感覚

自信とは、自己の存在に対する強い確信である。
そして、この確信が得られないと、自己自身の主体性のみではなく、他者の存在すら信じられない。人間不信の多くは、自己不振の変形なのである。

歪んだ社会で、自己の信念を貫く事自体むずかしい。よく常識や良識を守ればというが、その常識や良識すら時代や世代によって違う。それに人間は、自己の価値観で自己の正当性を主張するものだから、ますます混乱する。

事の正否善悪に、新旧老若の別はないのだけれど、では一体、何を君は信じているのかと聞かれると、はなはだ心もとない。
言行一致しているかと聞かれると、なお自信にみちた生き方をしている人を見ると、憧れてみるが、心のどこかで馬鹿にしている。

真面目に、一つの事に打ち込んで生きてみたいが、いざ、そういう生き方をしようとすると、つい照れくさくなる。
人生を斜めにみて、ダラダラと生活の中の 動きに流されて、生きているというのが本当のところだ。

人の生き方をどうこう言う前に自分に確信が持てない。
そう、自信がないのだ。自分に忠実に生きようとして、人にお前は変わっているとか、狂っているとかいわれるのがいやなのだ。人から嫌われたり、仲間外れにされるのが怖いのだ。
われながらな情けない。

しかし、自分の本道において一生懸命なれないというのは悲劇だ。周囲の無理解に負けて、現実から逃避したのでは、何の解決にもならない。そればかりか周囲の無理解さを増長させるばかりである。その解決は周囲の無理解と戦う事である。自分は常に真面目でありたいと思う。自分の目的や正しく思う事を堂々と主張する事。対象や目的に対して、誠実で真摯な真面目な態度、それはいつの時代でも正しい事である。

個性のある人とは、なにも突飛な行動するとか、奇抜な格好している者、偏屈な変人を指すのではない。その人間の持つ特徴が、当人がことさら意識せずとも自然と滲み出ているような人を言うのである。

人は、ことさら意識せずとも千差万別、どこか必ずその人の特徴がある。そのような特徴は、むしろ素直な行動や立ち振る舞いの中に、自然と備わっているものである。
個性的か否かは、その人間の主体の問題である。ことさらに、他人との相違を誇示してみせるのは、むしろその人間の個性を圧殺してしまう事である。

真面目になれないのも奇抜な格好するのも、いつには自信がないからである。人間が生きると言う事は、ただ単に、外界の存在や自己認識するといった受動的な態度だけではなく、その対象を、自分たちにとって必要なものに転化していく能動的な態度も必要する。

人間が社会の中で生活する為には 、自己の主体性を、より積極的に表現していかなければならない。諸々な関係の中で活動するという事は、自己の存在を意識するというような消極的な態度ではなく、対象に対して働きかけると言う積極的な態度が要求される。そこに、自信の必要性がある。


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