▪️意志こそ、愛と勇気そして希望

意志は、善や美に対する志向を意味する。
つまり、意志とは、善や美を成就させたいという願望であり、要求である。善は、状況に応じて目的を自己に与える。
目的は、自己に目標を与える。自己は、目標が与えられる事によって、自己を制御する事が可能をなる。

善は、 自己に自律性を生じさせる。そして、目標に向かって自己を調整しようとする力が意志である。善は、自己内部に基準、つまり、判断の中心を与える基準を与えられる事によって、価値観に位置を与える事が可能となり、決断力を自己は有するようになるのである。

経験や知識によって、自己は価値体系を構成する。 その価値体系によって自己は判断し、決断をして行動する。その行動の結果を反省し、自己は価値体系を再構成する。
このように、自己は、一連の思惟の循環を繰り返しながら、善を完成させていく。

意志は、行動の方向を示すものである。善は、絶えず変化している。そうした善の変化に対応しながら、行動の指針となるのが意志であり、行動の一貫性を支えるのが意志の力である。
自らの進むべき方向を示すのが意志である。
意志の赴く所、我行かん。

善は観念的なものであるから、善の個々の要素を命題化して、その真偽を、現象的なもののように、多人数の問に了解させるのは、困難な事である。善とは自己的なものである。善から生ずるものは観念的なものである。 故に、意志は、観念的な力である。意志は、目標に対する向上力であるから、目標に対する信念の強さが、意志の強さでもある。

人間は、自己の善意識に基づいて行動する事を欲する。人間にとって自己の善意識に背いて行動するのは苦痛である。
自己が悪になるからである。自己が悪になる事は、人間にとって 耐えられることではない。善意識に基づいて自己を修正しようとする力が働く。そこに、人間の意志がある。

意志には自己を向上させ、高揚させる力がある。それは、意志が、善意識に基づいてた力だからである。意志は、精神、心理上における平常感覚である。故に、意志は自己の精神的独立を維持し、主体性を発揚させる力である。又、意志は、善意識によって自己の精神を洗浄する。

悪と善との相克(そうこく)の中で、自己を研ぎ澄まし、より確固たる存在に自己を先鈍化するものだからである。
人間は、このように意志によって磨かれる。
悪の存在する社会では、自己の善を維持するのが非常に困難である。 自己の善を維持する為には、強靭な意志の力を必要とする。歪んだ社会に映る自己の像も、やはり歪んでいる。歪んだ像から自己の実像や真の要求を汲み取るのはむずかしい。

そうした社会では、人間は、ともすると、自己の信念を曲げ、 節を屈し、現実に妥協しがちである。歪んだ像にしか見えるこ事のできない社会では、自己を信じ、善に信念を持ち、独立を維持するのは、大きな恐怖や不安をともなうのである。

人間は、見せ掛けの快楽に、脆く、悪に染まりやすく、真の快楽を見失いがちである。 不正な社会は、自己自体を歪みようとする力が自己に対してかかる。自己の善と公共の利害が一致せずに対立するからである。人間が社会の一員としてしか生きていけないのならば、人間は、自己の善に従って、社会を改革していくか、現実に自己を妥協させていくのかの、二者択一を迫られている。

戦争や飢餓といった異常な情況下では、自己の善を守ろうとした場合、自分の生命や生活を危険さらす事を覚悟しなければならない。相互扶助をたてまえとしても、差別社会では統一した行動をとる事自体が難しい。あちらをたてれば、こちらがたたず。 門閥が幅をきかせている社会では、どれ程実力のある人間でも、社会に認められる事は少ない。

異常な情況や、不健全な社会の下では、自己の善を完遂することは困難である。自己の善を完成させるためには、異常な事態が起こるのを未然に防ぎ、不健全な社会を健全な社会へ積極的に改革していく必要がある。不健全な社会を、健全な社会立て直したいと言う願望、それが意志である。

自由な社会とは、自己の善が公共の利害によって妨げられないような社会をいう。しかし現実の社会は、不自由な社会である。不自由な社会で善を履行しようとすれば、諸々の社会から圧力を加えられる。公共の利害と自己の善を自由な社会へ止め揚する力が意志である。

社会的な圧力と戦いながら、自己の善に基づいて健全な社会を建設するためには、強靭な意志を必要とする。 観念の領域で語られるのは、観念によって生じた個々の命題についてではなく、観念を生じさせるものについてである。



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