■自己の対等な存在■

大自然に生息するすべての生き物は、皆、平等です。
平等な世界は、自然本来の姿なのです。故に、人間が、平等な世界を実現する方向に向かって進む事は、自然の回帰に他ならないのです。

しかし、それは、文明や科学を否定して、原始的世界に生活に逆戻りしていくことを意味するのでは無いのです。人間の進歩を否定する事は、自然が本来、 人間に与えてくれた能力を否定する事であり、自然な事なのです。

真の平等は、自然を正しく認識し、現象の背後に隠れている自然界を支配する法則を見いだし、それと、調和していく事によって、実現するものであり文明や科学をやみくもに否定する事は、自然の名を借りて、その実、 苦悩から逃避していることに過ぎないのです。

問題なのは、いかに在るべきかであり、何を為すべきかではないのです。自己の存在意義が定まれば、為すべき事は、自ずと決まるのです。つまり、自己の本性を見極めたその上で、この世界の中に自分を位置づけ、自分を取り込む対象といかに関わっていくかを決めるのです。

「己を知らずして、なぜ、人について語れよう。自己の存在の価値が定まらなければ、自分の身の振り方も定まるまい。
故に、人間にとって、まず、固有的な現実。考えなければならない事は、自己の在り方であり自己の存在理由。
自分を知ることは、これ程むずかしい事なのか。この混沌とした世界の中で、自分を知ろうとする事自体、矛盾しているように思える。」

 元来無意味な世界で、自己の意味を知る事自体、土台、無理なことではないかと思います。知りえない事を知ろうとするのは、愚かな事なのです。しかし、そういってしまえば身も蓋もないでしょ。確かに、それは、生きていない者にとって、愚問かもしれない。

しかし、それは、生きている者にとって切ない問い掛けなのです。何の為にという問い掛け程、空しい問い掛けもないでしょう。
だが、人間は、その空しい問い掛けを繰り返さずにはいられない。それが人間なのです。

哲学の使命は、対象界を正しく認識するための手段を見出し、自己の正しい在り方を定めるための指針を与え、人間社会を建設する為の青写真を創造する事にある。

自己の在り方も定まらず、対象界に対する認識も矛盾に満ちたものしか持たない人間達が寄り集まって社会を形成していく以上、その矛盾を解消し、人間一般に通ずる共通性を見だし、国民的合意を高めていく事は、哲学に与えられた重大な使命の一つです。

そこに、何等かの方があり、秩序がある以上、哲学の存在しない国家は、本来、存在し得ないのです。だが、現代の日本は、自らが意志しえたような哲学によって、自分たちの国家を建設しえたのでしょうか。

国家を建設する為には、それが少数者のものであれ、多数者のものであれ、何等かの理想や思想が必要です。
なぜなら、思想や理想は、その国家において国民が守るべき法と秩庁 を建設するための設計図であり、国家を運営していく上での指針だからです。

そして、その思想や理想が、哲学や宗教を要求するのです。
いくら時間や資材、費用、労力があったとしても、それだけでは家は立たないのです。
(6月14日)

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