科学的ということ

 古代オリンピックにおける勝者が得られたのは名誉と月桂冠のみであったそうだ。その月桂冠が枯れたとき、得た名誉を忘れよと、与えられた時から失うことを求める様は諸行無常そのものに思える。

 科学の定義についてはコンセンサスが得られたものがないという、なにやらパラドクスめいた状況ではあるが、カール・ポパーの反証可能性は、科学的な姿勢という点において核心に近いものであろうと私は考えている。それに従うと、科学は事実とそれに対する反証を止揚していく営みを指すと考えてよさそうだ。
 科学の文法は論理であろう。そうして積み上げていったものが「巨人の肩」であり、「巨人」が科学そのものとなる。巨人はいまや巨大すぎて、その一つ一つのパーツがどこにあるのか、どうつながるのかを把握することは容易ではない。

 さて、科学的手法を用いれば科学的事実が得られるかだが、それは否である。森羅万象のすべてを調べることができないが故に、統計的手法を用いてデータの解析を行うのだが、その時に生じやすいエラーの一つにサンプリングバイアスがある。
 我々は人間である以上、自らというものから逃れることはできない。そこにチェリーピッキング(自分に都合のいいデータのみを集めてしまうこと)が生まれてしまう。これに対する具体的な防止策を求めて、四苦八苦しています。

 個人的に、それ以上に科学的であるか否かを分けるものは、立てた問いにあると思っている。

「学而不思則罔 思而不学則殆」
漢字を改めたうえで書き下すと「学びて思わざれば即ち暗し 思いて学ばざれば即ち危うし」となる。巨人の中のどこにどのようにその知があるのか、自らの知(ないしその萌芽)は知であるのかに対して誠実でないと誤謬があり、そこから先の論理が虚となる。科学における虚は虚数だけでいいと私は思っている(専門外に他の実在する虚があるかもしれないが)。

 ロールズが『正義論』で使った「無知のヴェール」に一番近いのが科学の場なのではないかと私は思っている。もちろん完全ではない。
 ノーベル賞受賞者であれ、大学生であれ、科学は同じ土俵での勝負ということが原則である。それは即ち、科学的な態度を取る権利は人に平等に与えられているということかもしれない。そもそも科学関係の賞で得た名誉はまったくもって科学的ではなく人為的なものであり、別の価値観に基づくものである。故にそれで得られた名誉は、風に散る月桂樹のごとく散って無くなり、次の科学的事実に何も影響しないものである。そこにしがみついてしまうことは、ホモ・サピエンスであるが故の悲しさであろう。その強さを持てる人のみが科学者でいられるのかもしれないとも思う。

 「誰が言った」ではなく「何がどうしてどうなった」が優先される世界は平等だが、しかし反証可能性が故に、誰もが戦いあう可能性を秘めている。そこは決してユートピアではなく、そもそも科学的事実がホモ・サピエンスに必ず優しいというのは幻想である。青酸カリも電気椅子もすべて科学の産物である。
 科学の世界がユートピアでないからいって、科学がデストピアかというとそれもまた違う。ハーバー・ボッシュ法もペニシリンも科学の産物である。
 科学的事実に両論併記はないが、その扱いについては両論併記はありえる。その両論の中庸を具現化するのは科学ではないのだが。

 おそらくこのプロセスが共有されていないのだろうなと、電車の中づり広告や書店のベストセラーのタイトルをみて思う今日この頃である。

 ところで私は文系のプロセスを知っているのだろうか?

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