そこまで歩く

高校時代、数学を集中的に勉強していた。大学入試のためである。
微分積分の計算はできるが、式を立てることがとても苦手だったのは余談である。
数学は私が普段使用している言語とまったく異なる世界系を構築していたので、数学に取り組んでいるときはJ-POPを聞いていた。Walkmanの中に入っているT.M.Rの「風のゆくえ」をBGMに、そのとき私は(今だから名称を把握している)解析幾何学の解を求めていた。

僕らは透明に 交わり別れ続けるーー
 (井上秋緒) 

x軸とy軸、向かい合う双曲線、そして漸近線がそこにあった。
それを見てなんとなく、誰もが孤独だと思った。

そのころからの友人とLINEしているときに、星野源の話になった。「星野源がラジオで推していたから」という今までに聞いたことのない理由で布教名目で本が送られてきた。尚、これを書いている時点でも私は星野源の作品に殆ど触れたことがないので、友人は布教の意味をもう少し考えてみたほうがよいと思う。
送られてきたのは「希望の歴史」(ルトガー・ブレグマン)であった。ジャレド・ダイアモンド以降友人はこの手の本を時々紹介してくれる。
本の中で人間の本質を善性に求めた理論が展開されていた。読んでいる途中で駅のラーメン屋に置き忘れた本が届けられていると電話を受けたので、少しだけ信じてみたい気持ちもあったが、本の中で具体例として挙げられている文献が専門外の論文(英文)であるようなのでソースの検証ができないということで判断保留としておいた。

さて、先日、縁あって、哲学の道を歩み始めたテクノアサヤマ先生とお話することができた。私がnoteを書こうと思いたったのはテクノ先生の連載を広く知ってもらいたかったか故なので純粋に嬉しかった。
※テクノアサヤマ先生についてはこちらの連載を読まれることをおすすめしている(無料の会員登録で読める)。

様々なことを話す中、テクノ先生は「善への漸近」というフレーズを口にされた。端的なそのフレーズは先人の願いや歴史を受け継いだ人しか発露できない願いが込められているように思えた。

ホモ・サピエンスは生存本能だけでなく、豊かに生きようと種として歩んできた。その豊かさの中に、善があってもよいのではないだろうか。
私が思うに、善の発端は善をなしたいからではなく、自己保全の対価としての善である。しかし、こちらでも(https://note.com/mana_nerf/n/n073db2b9836a)でも述べたように、ホモ・サピエンスは結果としてかもしれないが、総体としては善くあろうとしている(但し、現在を過去と比較して「善」と感じる認識の中に、現在の価値観が大きく反映されていることには留保が必要である)。
有史以来、人は善とはなにかを問い続けてきている。そしてそれを恒常性こそ伴っていないが現すこともしてきた。

個としての存在は「私はあなたではない/あなたは私ではない」という点において孤独であり、それこそ双曲線のようなものである。平面図形上の曲線と決して交わることのない漸近線。曲線の中心部ではそれなりに近いが、距離は0にはならない。交わらなくても伸ばす手が漸近線だとしたら、それすら交わることはないのだけど少しでも近くに向かうそれは「ひとりではない」と伝えようとしているようだ。
たどり着けなくても歩き続けることで、いつか誰かに近づけるかもしれない。

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