【徒然日記】本質は虚構に囲まれていたり
【世界一周まであと〇〇日】
2021年もカウントダウンに差し迫ってきました。
一緒にNOTEを書いているmanaとも半年ぶりに会うことが出来ました。
10月はとてもとても幸せな1か月でした。
そしてもう10月が終わることに驚きを隠せません。10月になったとき、今年も残り100日切ったなって思ったばかりでしたから。
さて本題に入りますが、最近友人と「孤独」について話しました。
前回の記事も孤独を感じてるみたいな内容だったから、どんだけ孤独感じてるんだって感じだけど、今回話したのは、孤独だからとか、病んでるとかでは全然なくて、多分これが周りの動きだったり、かけられる声による20代後半くらいからの一度考えなくてはならないテーマなのかななんて思いました。
自分が結婚するかしないか、そのタイミングや相手、誰から言われなくても全部自分で選べる。自由に生きていたい反面、時折感じる孤独感というのは切り離せないものなのかもね、みたいな話をしていた時、
「それは本当に孤独というものなのか」
「虚構の孤独じゃないか」
という話をしました。
自分の語彙の中にこのシチュエーションや感情に当てはまりそうな言葉が”孤独”しかないからそう思い込んでいるのではないか。
なんでそう感じるのか、どういう時に感じるのか
そういうのを考えていったときに、実は孤独ではなくて違う何かの感情なのかもしれない、と。
いやはや、確かにその通り。
例えば、私が紅茶という存在を知らなければ、その飲み物が紅茶だとわからないし、むしろ認識できない。ただのお茶になるわけだ。
紅茶、プーアール茶、麦茶、ハーブティー、緑茶、、いろんな種類のお茶を飲んでいるけど、種類の違いを知らなければ、植物を干してお湯で蒸らしたお茶という飲み物に過ぎない。
だから、自分の感情の棚卸は自分を知るうえで楽しく重要であり、自分で生きていくのに必要なことなのだ。
そしてその後考えた末、確かに、別に自分が時々感じる感情は孤独ではないことに気づいた。
マズローの欲求階層を私は結構ことあるごとにみているのだけど笑、
自分は他者を見て自分にない所属と愛の欲求を求めているのかと思っていた。
でも、社会的に所属もしているし、連絡を取り合う家族もいるし、友人もいる。それは移住して近くにずっと仲良しの友達や家族がいなくてすぐに会えなくなってしまった今とて変わらないなと。
だからどこで何をしてても結局、住めば都だし、自分の人間関係も変わってもそう変わらない気がしている。
そう思うと、私が感じていたのは、承認欲求。
少し元気がなくなると、自分の心にしまってある自信のなさとか気にしいが心の表面に出てきて、内心承認欲求が出てきてしまう。
あのAdoのうっせぇわの
”純情な精神で入社しワーク 社会人じゃ当然のルールです”ってめっちゃ共感するなぁと、この心のうちに出てきた自信のなさからの承認欲求がダサいかっこ悪いダメ汚いなんて自分で呪いをかけてしまいそうな言葉や感情を心にしまい込んでひょうひょうとすることに一生懸命になったりする。
そんな時、きっとパートナーがいる人や結婚している人はどんな自分も見せれるんだ、勇敢でなんて羨ましい、そっからパートナーがいないことが孤独に感じていたのだ。
それは結局孤独ではなく、”どんな自分でも絶対的に信頼してみせられる””受け入れてもらえる”という承認欲求だった。
これが分からなければ、孤独だから恋人をつくってみようみたいに、焦って
自分にとってもお互いにとってもマッチしない関係を築いてしまっていたと思う。
今回の話で、学んだことは、勘違いしないこと。本質は虚構に囲まれていたり、自分の語彙や思考の足りなさが原因になっていることもあるってこと。
そーして、楽しく自分らしく生きていきたいです。
kana
この投稿はmana&kanaの共同です。投稿の最後に投稿者の名前を書いています。
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