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【日記】大学2年目(英国3年目)が始まる話(学習面において)

新学期が始まりつつあり、ファンデを共に乗り切った友人とか、高校生の時からお世話になった人とかと話す機会がたくさんあった。

そんな中で、大事にしたいな、と思った色々を書き留めていきたい。「大学2年目(英国3年目)が始まる話」、前編(学習面)と後編(生活面)に分けます。


1年生で私が学んだこと

ファンデーションコースの授業は’Focus’し過ぎていた

進学準備コースにいた時、先生たちの合言葉は’Have a focus, be specific’だった。エッセイを書くとき、何かのテーマについて論じる時、何かしらのフォーカスを持ちなさい、ということだ。

その結果、私の卒業課題は「1806年から1838年までのプロイセンのナショナリズムと教育改革」というスーパー・ナローフォーカスなエッセイになったし、そうすることが求められていた。漠然とした議論になっちゃダメだよ、というわけだ。

一方で、大学1年生で求められたのは、広い視野から色々なものを論じることだった。例えば国際関係論のエッセイなら、「経済要素」に注目するだけではなくて、政治・社会・文化・経済のそれぞれで段落を書くことを求められた。これは話し相手だった理系の彼女でも同じ傾向があったそうで、細胞レベルで分析するように最初から定義するのではなくて、細胞・全体の構成・繋がりなどを論じることを求められたのだという。

分野が違っても、同じような傾向があるのだな、と興味深く思った。

ファンデーションコースの学びが良くなかったわけではない。普段のエッセイでも問題文を定義するときとかにも定義は必要になる。問題は、その厳しさは場合によりけりだということだ。卒論を書く時とか、「問題に回答する」のではなくて「自分で問いを立てる」きっともっとしっかり定義する必要になるのだと思う。そう思うと、自分で問いを立てるときは、最初に論文を大量に読んで、そこに問題があることを立証できなければならないし、その点においてある程度フォーカスが絞られていくわけで、与えられた問題に回答するときとは都合が違ってくるのだろう。

エッセイを書く

エッセイの書き方が、また一つわかった。去年においては、段落の中での小さな構成とか、エッセイ全体の構成とかを把握することができた。それは学部のエッセイを書くにあたって、最大限に活用された。

一方で、実際に’Analysis’をする、ということの意味がわかったと思う。具体的に言おう。社会科学系のエッセイにおいては、Introduction-Literature Review-Body-Conclusionというふうに書くことが多い。Literature Reviewに目次のように「問いに関係ある理論」や「議論」をまとめるのだけれど、私はこのLRとBodyに連結感がなかった。

だけれど、Bodyで論じた例を使って全体の問いに対して答える中で、LRの理論をクライテリアのように使って結論に関連づけることができないと、LRで理論をまとめた意味がない、とようやくわかったのだった。

少し別件だけれど、大学にはWriting Serviceというものがある。大学の院生が、大学生に向けてエッセイの書き方などを個人指導してくれるものである。去年はそれを使う機会がなかった。なかったというか、エッセイを書く前にはバタバタしていることが多くて、予約を取って英文それ自体を見てもらいにいくタイミング自体なかったのである。だからこそ、今年は「去年評価が低かったエッセイ」を持って言って、直してもらおうと思った。

学びに錨をつけて

なんかさ、夏休み中に研究室にいくつか行ったんだけど、と彼女が言った。「大学の授業でやったことはさ、それはそれで面白かったんだけど、それが実験になると『こんなに大事なんだ』って思うことがいっぱいあってさ、よかった」。

首の腱がブチギレるんじゃないかという勢いで頷いた。

彼女は理系だけれど、私は私で、日本語で政治学・国際関係論とかを学ぶ機会があって、去年と一昨年でやった内容を今度は日本語で読んだり学んだりした。

英国の大学では、「この理論が大事!!」みたいな説明はしない。マルクスレベルによっぽど重要な人じゃなければ、講義で目次を読み上げるようにさらっと説明するだけである。その目次をもとに、自分でエッセイを書く時には「この人は重要、この人は自分のエッセイでは重要ではない」と判断していくことになる。それは自分で考えるようになるというメリットもあるんだけれど、同時に「その分野で重要とされている」人かどうかは、「色々な文
献を読んで複数出てくる/よく触れられている」というように経験則的に学ばなくてはいけなくて、少し大変だったりする。

逆に、私が勉強した時や、おそらく彼女の経験の中では、「ここが大事」というのがはっきりしていて、それはなんとなく、学問体系の押し付けであるというデメリットとともに、いわゆる正解への最短距離であるような気がした。

そうやって「大学でやったこと」を外に持っていく時、そして他の学問体系で学ぶとき、もしくは実務に移る時、また一つふわふわとしていた学びが、地に足をつけるのだと思う。


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