【英国卒論日記】#2
卒論のスーパーバイザーに会いに行った。
イギリスの学部の卒業論文というのは、10000単語ということになっている。A4で20枚だから、日本よりも緩いのではないだろうか。「いいかお前ら、絶対に10000文字超えるんだから、早く書き始めて早く削れ」と言われ続けている。
もう一つ言うなら、イギリスの大学の卒業論文はゼミに所属するみたいなことがないから、先生がお尻を叩いてくれることがない。実際スーパーバイザーはいるが、定期的に会うこともなく、「勝手にかけ、困ったら相談しろ」のスタンスである。日本の大学の事情をよく知らないが、知り合いが複数名ゼミの教授に進捗で怒られたり喧嘩したりしていたので、なんか自由かも〜とか思っている。
例に漏れずワタクシも、昨年の研究手法の授業で立てたプロポーザルを片手に、文献を読んで、無印のノートにまとめて、たまにNoteに書いてみたりして、プロポーザルにまとめ直している。そういうの好きだなあと思う。本をいっぱい買っていっぱい読んでいる。娯楽だ。
だが流石にずっと独走しているわけにはいかないので、去年手を震わせながら会いに行ったスーパーバイザーに会いに行った。メールでアポを取って、オフィスに行く。
タイトルは?こうこうこうです。本当はこっちがやりたいんだけど、多分難しいだろうなと思って。そうだね、こっちは理論的なことを議論しなくちゃいけなくなるからね。
会話のスピードがゆっくりした先生だ。私も静かに待つ。私が持って行った2枚の紙をしっかり読んで、「質問と文献レビューが噛み合ってないね」と言った。そうなんです、こう言うことに興味があるんですけど、学部の論文で落とし込もうとするとうまく噛み合わないんです。
先生は私の握っていた(これまた無印の)ボールペンを握ると、サラサラとストラクチャーを書いて、そこに私がまとめていた先行文献をうまく配分し直した。第三者のプロフェッショナルってすげー。だから私は政治学・国際関係論系の履修なのに、歴史学の先生にスーパーバイズをお願いしたのである。
まず、戦後の平和構築への国際社会の関与の仕方についてのセオリーが要るね、と先生が言った。Transitional Justiceとかですね、と言ったら、先生がにっこり笑った。
あと、「記憶」と言うものはいろいろな要素で作られることも忘れちゃいけないね、とも言った。記憶は関与できるものではなくて、人間関係、ピアー・プレッシャー、家族、個人の記憶とかで形成される。教科書は一部に過ぎないんだよ、と言うので、政府が介入できるから教科書は大事なんですよね、と言ったら、先生がまたにっこり笑った。これはリテラチャー・リビューの重要なargumentにしよう。大学院進学の用意をしていたときも指摘されたのだけれど、私は教科書への興味が強過ぎて、ついその重要性を忘れてしまうのだ。
文献が見つからない部分があって、🥺と思っていたのだけれど、「文献があるか自信がなくて…」と言ったら、あれよあれよと言う間に見つけてくださった。彼の過去の同僚の名前とかでプレサイスに検索したのだ。
今すぐ書き始めて、12月の末に持ってきたら、また話をしましょう、言ってくれた。とてもちょうどいいスケジュール感だ。
学部の卒論は、まあ学部だからねえ、と言う扱いだと思う。10000字だし、外にPublishされることもない。いわゆる「先生」と言う人たちとカジュアルに話していても、卒論というものは教育的意味以外にはあまり意味がない。子供のお遊びみたいなものだ。だけど、「は〜〜〜そうやってやるんですか〜〜!」みたいなものに気が付かされると、やっぱりPhDを取りにのし上がって行った人たちはすごいなあと思うし、私もそうなりたいなあと思うのである。
いっぱい読むぞ〜〜〜!卒論3本くらい書きたいな。
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