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【日記】ちょっと高いファンデ

はじめに

タイトルどおり、ちょっと高いファンデを使っていた話をしよう。

化粧品を買われる方は、ヘッダーの写真でどこのものかわかると思う。ずっと使っていた日本最大級のプチプラのフェイスパウダーを使い切った冬のある日、コベント・ガーデンにあることを知っていたこのお店に、フェイスパウダーください〜と言いながら訪ねていったのだった。コスメがわかる人は、大して高いものじゃないじゃないかと思われると思う。が、言い訳をするとイギリスに輸入されると値段が上がるので国内よりちょっと高いと言うことと、今まで本当にやっすいのを使っていたので、メンタル的に、ドラッグストアコスメとデパコスの中間くらいに位置付けられるものくらいが挑戦できる限界だったと言うことが背景にある。それも「ショッピングモールの中のひと店舗」とかではなくて「独立したお店」として存在するので、入るのにすこぶる緊張した。ものの価値は値札としての絶対的なものの他に、購入者当人による相対的な部分がある。

結論:背後にあるもの

言い訳をやめて本編に戻ろう。どこかで、「年齢に合わせて良いものを使うこと」を書いた。もう大学生になったし、成人も迎えたし、試しにちょっと良いものを使ってみようと思った。身の回りの品のアップグレードである。

数ヶ月使って、もうそろそろ終わりが見えてきた。ただ、結論としては、買い足さなくてもいいかな、と言う気持ちである。

確かにモチモチした質感のパウダーでよくカバーしてくれたし、脂ギッシュな肌を覆って保ってくれるパウダーだった。

ただ、それよりも大事なのは、それがどれくらい非日常をもたらしてくれるか、と言うことだ。普段より高いファンデーションをしていることは、確実に日常を少し非日常に変えてくれる。バイトの時の適当な化粧(気に入らなかった化粧品の消費のためにしていると言っても過言ではない)と、友達と遊ぶ時や、一人で映画を見に行く時みたいにする、自分の楽しみのためにする化粧が区別された。そして、この「非日常に変わるレベル」が、払った金額と見合うかと言えば、そうでもないなと感じた。これはプロダクトの問題ではなくて、私個人の感情や性格の問題である。

そして、私は「感じられる非日常レベルの費用対効果」を、ほんのり香る香水とか、気に入った形のブーツとか、コートとか、もう少し長持ちできる物品に感じる傾向があることがわかった。服。例えば、今年はとうとう靴も冬服を一枚も増やさなかった(減らしはした)。その代わりに去年の夏にすごく可愛くて、高いコートを買った。友達と電話する度に「かわいいコート買った話したっけ?」と言っては鬱陶しがられている。それを着て歩いている日の方が、高いファンデーションをしている日よりも、胸を張って歩いている気持ちがする。別に高いものでなくても、今履いているブーツは3000円くらいの量販店のものでノンブランドだけど、6cmくらいのヒールで綺麗な灰色のブーツを履いている時は、透き通った気持ちで道を歩ける。

もう一つ、消耗するものにお金をかけるなら、髪の毛をいじることの方が好きみたいなこともわかった。3月は人に会うイベント、かつ好印象を残したいイベントが多くて、半年放置した髪の毛を切り程よくパーマをかけた。2月はスーツを買い足したり、友達とご飯を食べたりすることが重なったこともあって、美容院代と合わせたら出費がすごくて破産寸前だったのだけれど(無事2月分のお給料日を迎えたので回避)、その悲しみを越えるほどに、ふわりくるりとした髪は、すごくテンションが上がって、こっちの方が大事だな、と思った。

顔が良くない分、髪とか、身長とか、顔以外のものを引き立ててくれる付加物に価値を見出すのかもしれない。最近になって自分の写真を若干抵抗なく見られるようになったが、高校の卒業アルバムとかは、未だに余り直視できない。うっかりしたところに自分が写り込んでいる危険性があるから。そう言う点において、化粧品に対する投資とはそりが合わないのかもしれなかった。

解像度

こうやって少しずつ自分の解像度を高めていく作業を通して、もしくはNoteに対して言語化していく時間を通して、高校を出て一人暮らしをして、自分に対する興味が少しだけ出てきたと思う。良い意味で、自分の存在に諦めがついたと言えるかもしれない。高校生の時には、「やるべきこと」「やると将来に資しそうなこと」が先にあって、もしくは「仲良くしたい人」「繋がっていたい人」が先にいて、そう言う目的意識に対して、もしくは対象に対して、手が届くように自分を上に上に見積もり、背伸びし続けていたと思う。それが、大学生になって、「自分の性質」を理解しようとして、そこに合うものを探そうとしている。お金の使い方、友達付き合い、余暇の使い方。できないこと、手の届かないもの、手の届かない人に対する諦めも、一回寝ればそこそこさっぱりと付けられるようになった。

それは、いつか訪れる、この巨大な世界の中で一人で生きていく人生の後半期に備えていくのに、必要なプロセスなのだと思う。いつまで厨二病を引きずっているのかと鼻で笑われるかもしれないけれど。その点において、自分のことを、「そこに存在している」と受け入れて、好きになれないところを諦めて、それと一緒に生きる方策を考えているのかもしれない。「そうか、そうか、つまりきみはそんなやつなんだな」と言うような。そして、圧倒的に凹が多い凸凹の自分の溝に、少しでもはまる何かを探している。

でもそれは、これもどこかで書いたが、自分の凸凹を世界に合わせて変えることを諦めた兆しでもある。自分が持っている引き出しにはまるものだけを探していたら、開く引き出しはもう増えない。高校生の時に手を伸ばし続けて、凹をせめて平にしようとしてきたから、今の自分がある。

生活とか、友達付き合いとか、余暇とか、いわゆるプライベートと言われるものにおいては、多分前者の、自分の凸凹に世界を合わせていく方でいいのかな、と思う。他人が存在しない自分のテリトリーでは、無理しない方がいい。

では、学問は?大学の勉強は、年次が上がるにつれて自己満足に近づいていく。自分が勉強したいからしている。今興味があることは?と聞かれたら、早口で捲し立てられる。これは、どちらかといえばプライベートだけれど、理解できないことに深い説明を求めること、追い求めること、理解することは、凹を埋めていく作業な気がするし、あまり苦がなくできるプロセスな気がする。

最大の問題が、就活だ。凸凹をフラットにして世界に合わせて行ったほうがいいのか、凹に合う何かを探して行った方がいいのか。凹を平にできるように努力して、少しでも凸に近づけて行く方が、きっと可能性は広がる。だけど、社会の中で一人で生きていく中で、ずっと凸に向かって走っているのは、きっと無理だ。じゃあ、どこで折り合いをつけるのだろうか。

いつだってこのNoteはナショナリズム理論か就活に収束する。


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