短編【そのパラレルではなくても】


子供を保育園に連れて行って、9時から空いてるスーパーで買い物をして、家に帰って洗濯機を回して溜まった洗い物を片付けて掃除機をかける。
配布された子供の新しいお道具箱のはさみやのりにお名前シールを貼っていく。スモッグのボタンが取れているから縫い付ける。
保育園からのアンケートに記入して封をする。来月の母親参加のイベントをスケジュール帳に控える。
洗濯物が出来上がったのでベランダに出て干していく。赤や黄色やピンクの靴下が揺れる。
夫が目を通さなかった職場の共済の新しい注意事項に目を通し、夫の名前で署名する。捺印する。電話が鳴ると司法書士からで、義父の残した家の処分に必要な書類の話をメモする。
合間に夕飯の仕込みをした。
魚を味噌に漬け込む。菜を刻む。
足りないものがないか頭の中で反芻する。

ダイニングテーブルに出しっぱなしのジャムの瓶を片付けた。
時計を見ると1時半だった。
テレビを付けてコーヒーを飲む。

いつもと同じ毎日。
繰り返される毎日。

ただほんの少し昨日と違うだけ。
保育園から渡されるプリントの内容や
干している靴下の色や
電話の相手や
夕食の献立が違うだけ。

絶望でもなく、諦めでもなく、逃げたいわけでも、なんでもない。
ただこれが現実で、毎日がそうやって過ぎていく。

スマホの通知が鳴った。
「あの人」
が近況を更新していた。

「あの人」。
どこの誰かも知らない。
ただ自分の人生で一度すれ違った
それだけの男の人。
去年遠くの街で開催された、大規模なチャリティイベントで出会った。
参加した大勢のボランティアで仲良くなって
学生みたいにその場でSNSをフォローし合った。
その中の1人だというだけだった。

既視感というのだろうか。
彼を見た時に
「どこかで会っていますよね」
と喉まで出て
「それじゃ、あんまりにもナンパみたいだ」
と言えずに笑って誤魔化した。
不思議な目をした人だった。
茶色でも、グレーでもない。緑がかった黒のようで、色彩がとても薄い。

「綺麗な目の色ですね」

と彼が言った。

「私ですか?」

思わず聞き返した。

「うん。とび色っていうのかな。緑みたいな黒みたいな、だけどとても薄い色ですよね」

ぼく瀬戸内の人間なんです。
瀬戸内の女性って、そういう目の人が多い。
ルーツ、瀬戸内ですか?

「分からないんですよ」

私、実の親を知らなくて。

そう答えると、ああ、と彼は言った。

「すみません。だけど謝るのもよくないですよね」

いえいえ、知らなければ、聞いちゃいますよ。よくある話で。

そんなことをやっていると集合がかかってそれぞれ持ち場に着いた。
イベントは大盛況で、帰り道の誘導も大変で
解散する頃には彼の姿はなかった。

あの人はパラレルの住人だ。
そう思った。

いつの頃からかパラレルというものを信じるようになった。
この世の全ては細かい粒子で出来ていて
粒子の濃淡こそあれど
あなたも私もあの人も
すべてが粒子でつながった雲のようになっている。
そこには時間も距離もない。
三次元の概念がない。
過去も未来もなく
ただ静かに私たちは雲のように揺れているだけ。

人生というのは
そのゆらゆら揺れる雲が
そよ風に揺れるような微妙な風合いで触れたり重なったりして出来ていて
だけど時間軸も距離もないから
存在しなかった未来も存在するし
なかったはずの過去が急に目の前に出てきたりする。

そんな概念に取り憑かれてから私は
現実というものの存在基盤がとても危うい。

「あの人」
は遠い北の土地、私のまったく知らない土地の
小さなカフェでお茶をしていた。
緑が濃く山が高い街だった。
そこに「あの人」は住んでいる。

だけど私は知っていた。
その小さなカフェに私は行ったことがある。
そしてそこにはウィスキーを少し垂らしたとても苦いカフェラテがあって
それを飲んだ後に枯れた街路樹に沿って歩いて
古びた電灯のそばにある古本屋さんに入ると
ツンとカビの匂いがして
上り口になっている土間には
不思議な模様の大きなタペストリーがかかっている。
それを見るのが私は好きだったのだ。
好き「だった?」
違う。
好き「なのだ」。

だけど私はそのパラレルに居ない。
そのパラレルを選ばなかった。

私はそのパラレルを選ばなかったのだ。

三時のお迎えを知らせるアラームが鳴った。
ひとすじだけ、涙が流れた。

ちょっとだけ泣いたらまたがんばれるのよ。

椅子に引っ掛けていたガウンを羽織る。
車のキーをポケットに入れる。
カサ、と何か紙切れに当たって引っ張りだすと
商店街の福引券だった。

お迎えの前に、寄ってみるかな。

玄関のドアを閉めた。

選ばなかったそのパラレルでなくても
今生きているこのパラレルでも
どこだってきっとやることは同じで
それはただ一生懸命に
そして自分に少し優しく
できるだけ柔らかく伸びやかに生きていくことだと
そう思っている。

冬の空に垂れ込める雲はどこまでも灰色に伸びている。

きっと「あの人」のいる
緑が濃くて山の高い街にまで
ずっと、伸びている。

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