別にあれば食べるけどね

私にとって寺社仏閣に参拝することは、あんこを食べることと同じくらいの位置づけにある。
どら焼きとかをおやつに出されたらまあ食べるけど、自ら進んで食べたいとは思わない。
それと同じで、付き合いだったら受動的に参拝することもあるが、自分ひとりだったら素通りしてしまう。無宗教なのに神社に参拝する自分に疑問を感じてしまうのだ。
私は、能動的に無宗教になった。私の家族が「世界救世教」という宗教を信仰しているからだ。
世界救世教はいわゆるカルト教として批判されることも少なくない。それでも私は結構幸せに育った。体罰とか勧誘に付き合わされたりとか無宗教の子と喋るなって言われたりとか全然なかったし。むしろ、お母さんがいつも言う「神様がちゃんと見てるからね。安心してお任せしなさい」という言葉は、心配性だった小さい頃の私にとって大きな心の支えだった。
お母さんはいつも優しい。全然怒られたことがない。東日本大震災が起きたとき、いちばんに教祖の「明主様」の名前を口にしていたのを覚えている。兄はその話を聞いて「プロだな」と言って笑っていた。
「救世教を信じていたら将来結婚できないかもしれない」と泣きながら相談したとき、母は困惑していた。父は「人は弱いから宗教にすがって生きていったほうがいいんだよ」と言っていた。お父さんとお母さんってもしかして弱いのかな。親って無条件に強いと思ってしまうけど、じゃあ母から救世教を取ったら、優しくなくなってしまうのだろうか。
父も母も、世界救世教がまわりに変な目で見られるような宗教と知っている。そう知りながら、どうして救世教を信仰し続けられるのだろうか。私にはできないよ。だって日本人だから。
日本人だから出されたどら焼きは食べるし、友達と行った神社には参拝する。
正しいかどうかなんてどうでもいい。変に見える行動はしない。生きづらいのはいやだから。
宗教を信じる動機が「弱いから」だとしても、ずっと同じものを信じ続けるのは強いよ、お父さん。

父、母と私の間には多分見えない国境がある。どうしようもなく日本人の私は、今日も耳慣れた夕拝の祝詞をBGMに隣室でパソコンゲームをする。お母さんがおやつに出してくれたどら焼きを食べながら。

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