⑵10歳

4つ下の妹が保育園に通い始め、
母は父の仕事を手伝い始めた。

私はその時から鍵っ子になった。
たしか10歳。

保育園のお友達の母親が、
自分の子と一緒に妹を連れて帰り、
母は、
お友達の家に妹を迎えに行って帰ってくる。


母は妹の翌日の支度をしながら妹の世話をする。


母の背中越しに見える毎日の景色。

かすかに、
たまに漢字ゲームをした記憶が残ってる。
唯一母と過ごした記憶。

にんべんの付く漢字、さんずいの付く漢字…
お題の漢字を書けるだけ書いて、数を競う。

唯一相手にしてもらえた時間、
褒めてもらいたくて、必死で書き連ねた。


小3の頃、高熱が出た時も
途中道端の街路樹の植込みに
何度も吐きながら、
ひとりで20分ほど歩いて病院へ行った。

甘ったるいくせに薬臭いシロップが大嫌いだった。

小4の頃、週に一回
急な坂道を登り降りして、
さらに坂を登った習字教室も
日が暮れるまで残って、母が迎えに来るのを待った。
ひとりで帰ろうと思えば帰れるのに
わざとモタモタして時間を潰した。

「暗くなってきたからお母さんに迎えにきてもらいましょう」
という先生の言葉を待って。

多分先生は察してた。
みんなが帰っていくのを送って、
そのまま台所に行き
お菓子と飲み物を持って戻ってくる。

私に帰る気がないのを察してた。


母は真っ暗になってから私を迎えにきて
その足で妹を、お友達の家まで迎えに行く。

母のあとを小走りに着いていく。



両親が独立して共働きになって以降
父親が帰るのは、いつも夜遅く。
咳払いが聞こえて
ー帰ってきたー
とわかる。
顔を合わせないように、寝室へ逃げ込む。

小5の頃からは、滅多に父の顔を見ることがなかった。

会ったところで、私の顔色を伺い、
『元気か』と言うだけで
そそくさとどこかへ行ってしまう

人懐っこい妹と違って、
表情を変えず目だけ動かす私は可愛げがない
ーきっとキライなんだー  と思った。

年頃になってから、その頃のことを思い返し
ーきっと母に似てたからキライだったんだろうー
と思うようになってた。


あの頃父はよく、フランスへ買い付けに行って
銀製の小物やガラスの細工、刺繍の小物を土産に買って来た。 
あるとき、母にトレンチコートを買ってきた
母は『ふん』と鼻で笑い、
『お姉ちゃんが着なさい』と言った。  

歳のわりには長身で、
贅肉はないが大柄な方だった母には、
7号のコートは明らかに小さかった。

子どもながらに ー 気まずい ー と思った。

そのコートは結局だれも着ることがないままサイズアウトし…
それなのに私は、ひとり暮らしを始めても
22歳までそれを持って歩いてた。

いま気づいたけど、
その頃の女が7号くらいの小柄な女性だったな。
そしてその女に初めて会ったのは22歳の時だったっけ。



母を思い出すときは必ず
妹の世話をする背中越しの母。

私が何か話しかけたとき、私に何か話すとき、
ほんの少し背後の私に顔を向ける。
一瞬手を止め、ほんの少し。
目線は斜め下の宙に置いてるだけ。
単語か短い言葉。
そして顔はすぐ正面に戻す。

4年の頃までは辛うじて、
『母がお勧めの友だち』を与えようと
策を練っていたようだった。

お相手の親に色々吹き込んで
お膳立てしてくれたが、
ー それは私のことじゃない ー
と、毎回思った。

母の意に沿うように、二度ほど遊ぶが
三度目はなかった。


ふと、

それは私じゃない、
じゃぁ本当の私はどんなだ?

私はどーすればいい?
母が期待するような娘でないことだけは判る。

私は、母が期待するような娘になりたい?
私は本当は、何がしたい?どうしたい?

母が期待する娘は、じゃぁどんな子?





小5〜6年の記憶は、ほぼない。
学校に行っていたのか、勉強してたのか
宿題はしたのか、何してたのか、、、

ー 陽が高くなってから、トボトボと歩いてひとり学校に向かった
ー 養護学級の子が、ガードレールから身を乗り出して車の数を指折り数えている後ろを通り過ぎた。
ー 小さな窓から強い日差しが差し込む真っ黒な部屋で昼ドラを観てた




中1のとき・・・

そういえば小5の頃、唯一仲がいいと言える一級上の女子がいた。
ポートボールと調理部で一緒だった。
そんな部活に入ってた記憶もないけど、
ポートボールでも調理部でも、その子と一緒にいる場面を覚えてる。

いちいち私を誘い、声をかけてきてた。


中学に上がると、
すぐその子が取り巻きを連れて新一年生の私のクラスに乗り込んできた。

《バスケ部入りや。》

その子が部長で、その中学の番長の彼女で、
学校のスケバンだった。



12クラスの中の9組。

ビックリして固まっていたら、
クラスの子も慌てて担任を呼んできた。

脅されてると思ったらしい。


その放課後から私は、そのスケバンと外で待ち合わせて行動を共にすることが多くなった。
 
何かというと私が呼ばれた。


バスケは1週間ほど参加して行かなくなった。
それでも彼女は私を呼んで、いつも対等に接してくれた。

面白く思わない取り巻きは、彼女がいない時を見計らって、チクチク意地の悪いことを言ってきた。 だけど私は気にしなかった。

気に入られようとしてるわけではなく、
昔からの友だちだから話してるだけだった。

彼女は、私を信用して素でいられることが
きっと彼女も楽だったんだと思った。

2年にも1年にも取り巻きがいて、その全員が私を目の敵にしてた。 めんどくさい。


ある日、ゲームセンターでテーブルゲームをしていたとき、目の前に財布を置いていたのに
気がつくとなくなっていた。
さっき、取り巻きの2人が前に座ってしばらく私のゲームを見ていた。
人が近くにいたのはその時だけだった。

金がないと帰れないから、一応彼女の耳に入れた。 すぐその取り巻きの2人に話しに行って
《取ってないってよ》と戻ってきた。
私の顔色を探ってた。

彼女が「取り巻きに訊きにいく」ということがどういう意味かはすぐ悟った。 だから
「わかったよ、もういい、ありがとう」と言うと、彼女は札を一枚くれた。

それ以降、取り巻きは私に近づかなかった。





秋頃から 「母親とちょくちょく話してる」
と言って、度々担任に呼び出された。


やたら馴れ馴れしく、友好的を意識してるらしく
面白くもない冗談を言って大声で笑って見せた。
続いて、聞きかじりの『私のいいところ』を褒めはじめ、
なんでも相談しろ、と言ってきた。

注意深く話を聞いていると、
どうやら母親に何か吹き込まれているらしく
担任の脳内に、まるで私のことじゃない私が存在した。 めんどくさい。

それでもなんとか理解しようとしてくれてる担任に、礼は尽くした。

だけど ー それは私じゃない ー 
と心で呟きながら。




中2の春、マンモス校は分校になった。

新校に通うことになった私は、最高学年になった。
一期生だ。


元の中学の時・・・
東館の3クラス、東棟の3クラス、西棟の3クラス、そして西館の3クラスがあった。
西館以外にそれぞれ番長的存在の女子がいて、
西棟の番長と勝手に格付けされてたのが私だった。
ただ、学校全体のスケバンのマブだっただけだ。


新校に移ると、東館、東棟の番長と、その取り巻きがそれぞれ1人ずつ、同じ中学に通うことになった。
4人は元々よく連んでいて、1年の間、ずっと私を睨みつけていた。

その東館の番長と、東棟の取り巻きが同じクラスになり、いつのまにか私の机を取り囲むようになった。 
次第にあとの2人も、休憩時間のたびに来るようになった。


東館の番長と呼ばれた子は、別に性格の悪い子ではなかった。 金持ちの、どちらかというとキレイな優しい子だった。
何度か家に遊びに行き、ブランド物が点在する大きな部屋に通され、他愛もない話をした。
家族のことや、自分のこと、自分の考え。


親友と言える友だちになる気がしてた。



夏。

家族が引っ越すと言い出した。
大阪の万博の麓から、
京都の市の外れの新興住宅地。 
建ったばかりの公団が当たったそうだ。


初めて私は、ハッキリと意見を言った。

「私は行かない。ここに残っていまの学校に通う。 このまま、ばあちゃんとこで暮らす。」

怒るわけでも困るわけでもなく母は
あしらうように何か言ったが、覚えていない。

数日して再び、「ばあちゃんとこで暮らすから」
と言ったが無視された。


1学期の終業式の1週間ほど前、親友になりかけた彼女と、もうひとりの東棟の番長にだけ、引っ越すことを告げた。

終業式の日、その親友は、手紙と、
なんだったかとてもセンスのいい
キレイな小物をくれた。

長いこと、机の引き出しに入れて、
時々手に取ってみてたはずだが、
いつのまにかなくなってしまってた。



夏休み。

ー ここで私のことを知る人はだれも居ない ー
ー どんな私にでもなれる ー
ー 新しい自分、なりたい自分になる ー


新しいブレザーの制服が間に合わず
セーラー服で挨拶に行った。


✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼



何がしたいか
どう生きたいか
どんなことがイヤだったか
どんなことに違和感を感じたか


あの頃は

何かにつけ、自問自答してた


一じゃぁどうする?一



『見た目で判断されること』というより

見た目の印象から人となりを想像して
それっぽい人物像に決めつけること

あるいは
近い人間が、あたかも真実のように
私の『本当の顔』を人に伝えること


私にとっては、そのことが何より悔しかった

怒りというより、悔しい、悲しいという感情。


その人たちにどんな意図があるのかは知らない
ただ、確かめてもないこと、知りもしないこと

無責任に『事実でないことを事実のように伝える』ことは
的になった人間を苦しめてることを知ってるのか…




私がそのとき何を感じ、なにを思い、
どう考え、どう判断して、どう結論づけたか

そのことを自分自身で
いちいち明確にしようとした。

そうすることで
自分がそのとき何を感じ、なにを思い、
どう考え、どう判断して、どう結論づけたか
すべて説明ができる

すべて説明することになった時
矛盾や自己満足に偏ることがないように

自分の『結論』の目的は
常に四方良しだった。


それは自分にとって不利になり得ることもあった

『正直』に話せば、
その部分だけ切り取ったゴシップ、いくらでも悪用できる。
悪意のある人にとっては格好のネタになる

けれどそれは自然な心の動き、
取捨選択の上で必要だと判断すれば、
何も隠すことはない。





心の声を訊く

誠実であれ

確かめたこと以外を信じるな

正解はない、最善があるだけ。


すべて自分の責任





すべて自分の責任・・・というのは


自分の行動は、すべて自分の責任だということ

当初の一番の理由は
『親がしゃしゃり出てくることがないように』

担任や指導者に、親が私について
事実でないことを吹き込まないように、

担任や指導者の主観や評価といった
偏った情報を親の耳に入れられることがないように。

親が、『親の立場』をひけらかす場がないように。






自然と自分の信念と言えるものができあがっていて
親との関係が切れたあとも、
人から非難されることはしない
つまり『人に迷惑をかけない・巻き込まない』
と決めてた。

┌───────────────────┐
人は自分に何らかの影響が出たり、巻き込まれるから非難する
自分に不都合が生じたとき、その原因になったものを批判する。
その批判の正当性を強化するために、元になった原因、人物をことさら悪者に仕立てる。
└───────────────────┘

今の世の中に蔓延る批判は、結局保身でしかない。
批判すればするほど『自分に不利益が生じていてそれを自分自身で対処できない、自分にその能力がない』ということを示してる。。。いまこれを書いてて腑に落ちた。
                             なう(2021/06/13 10:56:57)



人がどう考え、どう感じるかではなく

自分自身の最善を選択する

それが人にとって期待通りでなくても
必ず相手のことも尊重する、
たとえそのときその人にとって期待通りでなくても 。
結果的に相手と私との関係において、
私の行動として、
『自分の責任で受容できる結論を、誠意をもって出す』


長い間、この考えに従っていた。

教わったのではなく
自分の体験から学んだ教訓だ。





裁判ではこれが仇となったのだが・・・。


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