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災害研究者が新型コロナウィルス感染症について考えてみた(2)感染症による被害はどこから来るのか

1.新型コロナウィルスの「被害」

4月13日。世界における新型コロナウィルス感染拡大が止まらない。CSSEが報告する世界の感染者数は1,807,939人、死者数は112,241と、たった一日で7万人以上の感染者と5千人以上の死者を新たに記録するに至った(日本は感染者数6,748人、死者数108人)。

事態の深刻化に伴って、感染症対策への関心も高まっている。週末の報道番組では、東京都を中心に感染者数が高止まりしていること、感染経路を追えない症例が増えていること、院内感染が新たなリスクとして認知されつつあること、このままでは医療崩壊が起きることが真剣に懸念されることが議論されていた。

社会活動の抑制に関する議論も熱を帯びてきている。北海道大学の西浦教授により、人との接触機会を8割減すれば流行拡大を抑えることができるという試算が示されて以降 (読売新聞「首相「接触8割削減なら1か月で緊急事態脱出」」) 、政府や自治体は不要不急の外出の自粛やテレワークの推進を始め、市民の「行動変容」を促すためのメッセージを出し続けている。中でも、多数の人が集まるイベントや人混みを生みやすい小売・外食・サービス産業には行政から休業要請が出され特段の対応が求められることになった。 (東京都「新型コロナウイルス感染拡大防止のための東京都における緊急事態措置等」)

他方、そうした企業や労働者の活動抑制を促す上で欠かせない休業補償を含む経済支援について、政府や自治体は未だ明確なメッセージを出すことができていない。30万円、108兆円、50万円、100万円、200万円、現金給付、無利子無担保の融資等、政府や自治体は様々な数値や制度を矢継ぎ早に発表している。だが、市民の行動自粛に伴って、仕事がなくなり、客足が遠のき、商品やサービスの売れ行きが落ち、取引先からの調達が減り、運転資金や生活の原資が日々枯渇していく中で、市民はウィルス禍に加えて経営不振や生活苦といった問題とも向き合うことを強いられている。欧米諸国の中には経済支援を大規模かつ果断に行った例があることも、議論に一層の熱を加える要因となっているように思える。

新型コロナウィルスは人間の命や健康に対する深刻な脅威である。しかし、同時に同ウィルスの感染拡大は、経済活動や医療活動を圧迫し、引いては雇用の喪失、企業活動の停滞、社会の貧困化、医療システムの崩壊といった様々な社会的被害を引き起こすものであるという認識が生まれてきている。

2.災害がもたらす被害ー直接被害と間接被害

自然災害においても、その被害に広がりがあることは以前から意識されてきた。津波、地震、台風、洪水といった災害を見れば、それがどのような被害をもたらすかは、一見、自明のようにも思える。

しかし、災害による人命や物的資本の損失は、いわば被害の一側面に過ぎない。そうした被害が元となって、被災者の生活困難や社会的孤立、引いては地域社会の人口減少や経済停滞、治安の悪化や政治的対立の先鋭化といった現象が起きることは珍しくない。つまり、自然災害はそれが直接的にもたらす直接被害と、そうした直接被害が元となって現れる間接被害の両方を生み出していると言える。

付け加えるならば、災害には間接被害をもたらすということが、いわゆる「(壊れた物的資本を元に戻すような)復旧では意味がない。(新しい生活や社会の状態を作るための)復興を目指すしかない。」という災害復興における重要なコンセプトの出発点でもある。

災害で家族や友人を失った人達は、壊れた住宅を再建したからと言って家族の団らんや友人との付き合いが帰ってくるわけではない。道路や空港、建物が破壊されたからと言って、それらを建て直せば企業の集積やビジネスの活力が戻ってくるわけでもない。被害から立ち上がっていくためには、被災前の状態への回帰ではなく、多くのものが失われた現実に立って新しい状態を目指していく他ないのである。

3.災害被害をもたらす社会の「弱み」

災害研究の領域では、災害による被害は、自然現象と社会が関わることによって発現するという見方が近年では支配的になっている。例えば、M7.3の大規模な海溝地震が発生したとしても、その近隣に居住地や資本設備がなければ被害が発生することはない。しかし、M7.3の直下型地震が大阪湾で発生すれば、阪神・淡路大震災のような大規模な被害が出る可能性がある。

実際に、災害疫学研究センター(CRED)が構築している世界の災害データベースであるEM-DATでは、そこに登録される災害事象の基準を以下のように定めている。

(1)死者が10人以上
(2)被災者が100人以上
(3)緊急事態宣言の発令
(4)国際救援の要請

これらの条件には、自然現象それ自体の規模は含まれていない。自然現象が社会にもたらしたインパクトが基準となって、災害か自然現象であるかが区別されているのである。

さらに、災害による(直接・間接的な)被害のインパクトは、社会の状態にも依存することが分かってきている。例えば、2004年に発生したインド洋大津波は、インドネシアを始めとする複数の国に大規模な被害をもたらし、合わせて20万人以上の人々が犠牲になった。しかし、ほぼ同規模の津波を経験した東日本大震災による人的被害はインド洋大津波の約十分の一程度の規模にとどまっている。

この差は、津波や地震といった自然現象の規模というよりも、東南アジア諸国と日本社会の経済発展の水準が異なる点から来ている考えることができる。脆弱な構造の住宅が密集し、自治体や政府の財政基盤や防災投資の蓄積が十分ではない社会において、突如として大規模な津波が発生すれば、人的被害が拡大することは避けられない。こうした災害被害の差を説明する社会的要因のことは「災害に対する社会的脆弱性」と呼ばれる。

災害による被害とは社会的現象なのである。

4.新型コロナウィルスが暴いているもの

そう考えると、新型コロナウィルスが各国において直接・間接的にもたらしている被害にも、社会的な側面があるということになる。つまり、一見、感染症の拡大が人的被害だけでなく間接的な被害を生み出しているようにも見えるが、むしろ被害の有り様には、われわれの社会が抱えてきた構造的な「弱み」が現れていると考えることができる。

感染者数の増加に伴い、保健所や病院施設におけるICU等のキャパシティが問題となってきている。緊急事態宣言に伴う外出自粛や休業要請、三密環境の回避要請によって、外食産業、小売業、サービス業、観光関連産業に属する企業の経営が危機的状況に陥り、雇用を維持することが難しくなってきている。人を集める環境が作れなくなったことで、芸術や大衆文化の担い手である俳優、音楽家、映像作家、芸人といった人達は、活躍の場を失うだけでなく、生活苦に喘いでいるという声が聞かれるようになってきている。感染症対策が後手に回っていることや、経済的な不安を持つ人々に対する支援が規模と速度の両面で不十分であることから、行政の対応は杓子定規で政治は決断力に欠けるという指摘が相次いでいる。

しかし、振り返って考えてみれば、われわれは日本の皆保険制度が優れた制度であると称賛する一方で、医療従事者に対して過剰な労働や制約的な環境を強いてきたのではないか。観光ブームの到来による経済的浮揚に浮かれる一方で、サービス業における生産性や賃金の低さは見過ごされてきたのではないか。日本の芸術文化の振興は、経済合理性が前提となり、それが正当化し得る範囲でのみ容認されてきたのではないか。そもそも、日本の社会保障制度は生産年齢人口に対してあまりに手薄であり、かつそうした社会保障を支える日本の財政状況が長年にわたって悪化してきていることは、これまで繰り返し指摘されてきたことではないのか。日本の行政対応が融通が効かず、政治が決断力を欠いているのは、公務員や政治家の個々人の資質の問題というよりも、市民とメディアの両方が永田町の論理や政治の風向きを追うことに拘泥するあまりに、政策の形成過程や事後の検証を軽視し、社会問題の解決に向けて活発な政策議論を行うことに十分な関心を払ってこなかったからではないのか。

新型コロナウィルスに対応するというときには、短期的にはその被害を抑止するというための措置が求められる。しかし一方で、感染症に「適応」した社会を作っていくということは、こうした「社会の弱み」を克服するために社会的構造を変えていく必要がある。


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