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瞑想に失敗はない-難しく考えるから分からなくなる-

プロローグ

こんにちは!心庵まもると申します。
瞑想研究実践家として活動をさせて頂いています。
この度、kindle本、POD本として初めての書籍がリリースされました。

書籍名は「超・瞑想力 ー悩み葛藤を楽に超えていく方法ー」です。

以下、ページにて購入できます。
是非、チェックしてみて下さい。

●Kindle本:https://www.amazon.co.jp/gp/product/B09FNZXK54
●POD本:https://www.amazon.co.jp/gp/product/B09FNR73VV

note記事では瞑想に関する雑記、書籍などの新刊紹介やその中で触れられていることに纏わるお話しなどを投稿していこうと思っています。

今回のテーマは「瞑想に失敗はない-難しく考えるから分からなくなる-」です。

瞑想のお話しをすると大抵はその言葉だけが独り歩きします。
「瞑想?宗教か何かの修行ですか?」
「座禅を組んで無になるんですよね?」

このような印象を持つ人もいます。

昨今ではカルチャースクールのようなところでも手軽に瞑想を学べる機会も多くあるため、極端な色眼鏡で見る人は少なくはなってきているとも言えるでしょう。
アップルの創業者である故スティーブ・ジョブズも禅の思想に影響を受けていたことでも有名です。

Googleでもマインドフルネスなどの瞑想時間を取り入れて社員に奨励していることも世の中では知られています。
ただ、それでも、「自分は身体が硬いから座るのは苦手で…」「座ってもすぐ雑念が沸いてしまいます」という声も聞こえてきます。

つまり、どこかで瞑想は難しいものという印象を持っていると言えるでしょう。
そもそも、瞑想とは難しいものなのでしょうか。向き不向きなどがあるのでしょうか。
その辺りも考えつつ少し瞑想についてお話しをしてみたいと思います。

瞑想は座らなければダメ?

瞑想といえば日本では座禅のイメージがあります。
結跏趺坐(けっかふざ)、あるいは半跏趺坐(はんかふざ)と呼ばれる胡坐に似た姿勢で目をつむる、半眼(はんがん ※瞼を半分閉じ半分視界がひらいた状態)で行う。

このような形式でとらえられることが多いと思います。
では、瞑想とは上記のようなポーズを取ることを指すのでしょうか。
答えはNoだと言えます。
逆に言えば、そのようなポーズはあくまで瞑想をする際の外部環境の一つを整えることに過ぎないとも言えるでしょう。

結跏趺坐、あるいは半跏趺坐も、地面に座る際に長時間安定して過ごすことが出来る姿勢になっています。
瞼を閉じるのは視覚情報を遮断、ないし少なくすることで瞑想に集中するためです。

つまりは瞑想を行いやすくするために整えていると言えるでしょう。
しかしながら、結跏趺坐、あるいは半跏趺坐が必ずしも瞑想に向いている姿勢だと言い切ることは出来ません。
何故ならば股関節や身体が硬い体質の人にとっては、座るだけで一苦労となります。

瞑想に集中できる環境を整えるはずが、そのための座り方が瞑想実践の妨げになってしまうのは本末転倒です。
要するに安定して瞑想が出来る姿勢であれば問題ないわけです。

瞑想とはあらゆることに気づく行為

瞑想とは座ることではありません。
座ることは瞑想行為の一つの作法ではあるかも知れませんが、本質的なことではないと言えます。
だから、結跏趺坐、半跏趺坐という座り方に固執する必要はないでしょう。

現代では安定して座り続けられる椅子などもあるわけです。
そういった道具を使わない手はないでしょう。
それよりも瞑想の本質がどこにあるのかを理解していないことの方が問題になります。

では、瞑想の本質とは何なのでしょうか。
それは、あらゆることに気づくことです。
私たちは日常の殆どを無意識のうちに過ごしています。
試しに夜眠る前にその日の一日を振り返ってみて下さい。

どの程度、正確に思い出せたでしょうか。
おそらく、印象になる出来事がいくつか浮かび上がる程度ではないでしょうか。
もしかするとその思い出せた記憶すら曖昧なものかも知れませんね。

どうしてこれほど思い出すことが出来ないのでしょうか。
もちろん、記憶力という問題もあるかも知れませんが、偏に一日の殆どの行為は無意識にこなしてしまっているからだと言えます。

考えること、感じること、触れたこと。
一つひとつのことを意識して生きているかといえば、そのような人はまずいません。

ただぼんやりと一日をやり過ごし生きている。
このような状態が本当の意味で人生を謳歌していると言えるでしょうか。
もちろん、あらゆるものを記憶しておく必要はないかも知れません。
それでも、生きているその瞬間をしっかりと味わい意味あるものとしていくためには、常に気づいておく必要はあると言えるのではないでしょうか。

瞑想は無意識化した私たちの埋没した本来の自己を活性化していくことにあると言えるのかも知れません。

瞑想に失敗はない

瞑想は気づくこと。
ここにポイントがあるとするならば、瞑想とは注意しつつしっかりと意識して生きることだと言えます。

どのように座るのか。
作法はどうなのかは本質的には意味がありません。
むしろ、この一瞬一瞬の中で今、何が起こっているのかを観察していくことが出来れば良いわけです。

例えば、今、この記事を読んでくれているあなたは、記事を読んでいるということにまず気づくことから始まります。
「当たり前じゃないか?」と思うかも知れませんが、オートマティックに記事を読み進めていると次第に無意識に入っていくことになるでしょう。

そして、実は記事を読んでいるつもりが別のことを考えたり、あるいは偶々、耳に聞こえて来た周囲のノイズが気になったりすることもあるはずです。
そういったちょっとした心の動きに気づくこと。

これだけでも瞑想をしていると言えるのです。
「なんだ、そんなことか。簡単ではないか」
そう思ったならば幸いです。
その通り、瞑想は難しくありません。

そして、瞑想に失敗はありません。
仮に気づくことがその場では出来なくて後で無意識になっている自分を発見する。
これは気づけなかったから失敗だと思いがちですがそうではないのです。

気づけなかったと後で気づけばそれも気づきになります。

どうでしょうか?
瞑想は簡単ではないでしょうか。
もし、あなたが瞑想を難しく考えていたならば、今、この瞬間からその考えを捨ててしまいましょう。
そして、一歩、瞑想の門へ近づいてみてください。

瞑想によりあなたの中の可能性が開けてくることでしょう。


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