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ロロ「ロマンティックコメディ」



4月16日。ロロの『ロマンティックコメディ』を観た。
「いつ高」シリーズを思わせる会話劇を約2時間にスケールアップして挑んだ今作。これまでロロが描いてきた「ボーイミーツガール」、人と人との出会いを繰り返していく中で、それぞれの登場人物、観客の価値観を少し更新していく物語だったように思えた。


今作で描かれたのは、亡くなった詩歌(しいか)が書いた小説を通じてつながる人たち。丘の上に立つ、一風変わった古本屋さんで働いていた詩歌は、全く本は読まなかったというが、一冊の小説を書いた。勇者らが怪物たちを倒していくという、RPG的な物語。
古本屋で定期的に開かれているようである読書会には、詩歌を慕った人たちが集まる。店主のヒカリをはじめ、かつての常連や妹のあさって、オンラインゲームを通じて出会ったとなりが、小説について好き勝手に語らい合う。
ある日の読書会。となりが買ったチョコプラネットを追って、寧と麦之介の二人は店に訪れ、詩歌の小説に出会う。
数年後、久しぶりに開かれた読書会に、麦之介は再訪する。連絡が取れなくなった寧との再会を求めて。読書会ではかつての常連の2人が熱い議論を交わしている。「ズボボボボボーボン」が何の擬音語であるのか、について。話は盛り上がって、議論は小説の舞台が詩歌のかつて生きたこの町とリンクしていたとの推測へ。さらに考察は展開され、登場人物のモチーフにも及ぶ。しかし、その考察への受け取り方は、参加者によって様々。ヒカリはモチーフの登場人物のセリフを音読することを求められたが、乗り気ではない。「間違い探しみたいに読みたいのかも。詩歌の書いた物語と、詩歌との思い出の、おんなじところを見つけていくんじゃなくて、違っているところを見つけていくのかも。物語と思い出の、距離を私は読むのかも」とヒカリ。
さらに数年後。読書会は久しく開かれておらず、麦之介ととなりは結婚し離婚したようだ。店の看板は、集客のために「コストコ」に変わった。その日は、カフェ営業再開に向けて、あさってが詩歌の作ったパンケーキを再現して作り、常連2人が食べに訪れていた。2人が帰った後、コストコの看板を頼りに、大きなピーナッツバターを買いに来た白色。彼女は、中学生の頃すでに詩歌の小説に、小説投稿サイトで出会っていた。投稿サイトには小説の録音も投稿でき、かつて彼女が録音した声が今も残る。ヒカリも録音し、投稿する。
ヒカリは白色に小説を税込980円で売った。かつて麦之介に「値段の付けられないものだから」とタダで譲った詩歌の小説を。
白色が店を去った後、寧から届いたダンボール箱を開ける3人。中には外国っぽい、布や栞など。3人は栞を挟みたい本を、それぞれに店内を探す。


観劇して

ぼくは本作を見る直前に、客席に座りながら本作へ向けた三浦さんのインタビューを読んでいた。通信を制御された劇場内で、ぼんやりと明かりの灯った舞台を眺めてから、電車で開いたページを再度開いて読んだ。だから観劇後に、この感想を書いている今(結局1週間ほど経ってしまった)、全ての言葉が自分だけから出ているものではないという自覚がある。

更新することを肯定する

本作のテーマは「更新」であるように思えた。ロロ、三浦直之さんがこれまでに描いてきた「出会い」「関係性」「忘却」をベースに、それらを「更新」することを肯定する物語のようだった。
それを象徴するのが、詩歌の小説を売るヒカリの場面だろう。初めは寧に「値段が付けられないものだから」とタダで譲った小説を、何年後かのヒカリは白色に980円の値をつけて売った。その時、あさってやとなりは言葉にしないまでも、確かな違和感を感じていたが、言葉にはしなかった。多くの観客が間違いなく、この違和感に気づいただろう。この変化の良し悪しを劇中で論じられることはない。この物語は「変わることを許容する」ための物語だからだ。
こと日本では、「変わらない」ことを美徳する考えが一定数、確かに存在する。一度信じた信念や決まりは貫き通すべきで、変えようものなら、それほどの思いだったのかと、嘲笑うような。そんな意固地な考えが、ぼくの中にも確かにある。加えて記憶や思い出も同じく「変わらない」ことを求められるものだ。劇を見る直前に読んだインタビューで三浦さんは、東日本大震災の被災者遺族へ抱いた思いと重ねて、語っていた。月日を経ることで、思い出は薄れ、変わっていく。遺族はそのことに抗い、時に落ち込むかもしれない。変わることは、免れないことであるはずなのに。その時、故人や過去との向き合い方を変えることができるのならば、「変わる」ことは自然であり、必要なことだと思えた。変わることを恐れるままでは、いつしか思い出が呪縛となって、双方が過去に留まり続ける。呪縛を解いて未来へと向かうことを互いに許す、それこそが更新を前向きに捉えることだろう。

タイトルについて

タイトルの「ロマンティックコメディ」は、一般的に映画や小説、演劇のジャンルを示すものだ。イメージするのは、初めは関係の良好でなかった男女2人が、面白おかしいトラブルやすれ違いを経て、最後には結ばれる物語。このようなイメージを抱いて観劇した人は、その差異に驚いたかもしれない。
本作で恋愛要素として描かれているのは、麦之介ととなりの2人。チョコプラネットを追って出会った2人は、店先の喫煙所でタバコを吸って言葉を交わし、2回目?の再会を経て結ばれるも、長くは続かず、すぐに離婚した。だが、これは話の本筋ではない(ように思えるし、そのように描かれてはいない)。これもまた更新することを肯定する1つの事象なのかもしれない。

忘却と更新

ロロはこれまで何度も「不在」を扱ってきた。「はなればなれたち」や「あなたがいた頃の物語と、〜」では、舞台からいなくなった人を、周りの人の出会いや思い出を通して描いてきた。それはある意味で「忘却」に抗う物語だったと言える。「はなればなれたち」では、淋しいの存在を痕跡として仲間たちが世界中に残していく、「あなたが〜」では花びらの存在を歌や町の中に継いで残されていく姿が描かれた。いつの時代も「忘却」は「不在」に相反する立場として、存在してきた。
本作に描かれるのは「忘却」をも許容する「更新」だろうと、改めて記す。
2作と本作が異なるのは、「不在」の人物が実際に舞台上の役としても存在しなかったこと。物語の中心にあるのは詩歌の存在ではなく、詩歌が書いた小説だ。詩歌は小説の作者として確かに存在するが、そこに回想シーンなどはなく、あくまで登場人物のセリフ、つまり思い出の範疇でしか、観客にその存在は示されない。
話の中心となる読書会は、更新する行為そのものでもある。小説は読んだ時の状態や環境に応じて、異なった感想を抱かせる。これまでに気づかなかった解釈や発見が、読んだ時ごとにそれぞれある。読書会を通じて何度も小説を読み、詩歌のことを忘れない意味もあるだろう。本作では、店外から入ってくる新しい人たちによって、感想や解釈が広げられ、小説の存在が更新される。小説の解釈や感想を更新することは、詩歌の存在を更新することであり、強いては詩歌との思い出を重ねることになる。彼らにとっていなくなった人と思い出を作る、唯一無二のやり方だったなのかも知れない。まさに、残された人たちが自発的に更新する物語なのだ。


一番印象的だったセリフ

 「間違い探しみたいに読みたいのかも。詩歌の書いた物語と、詩歌との思い出の、おんなじところを見つけていくんじゃなくて、違っているところを見つけていくのかも。物語と思い出の、距離を私は読むのかも」

読書会で詩歌の小説が、詩歌の過去とリンクするものだと読み明かされる中で、ヒカリは一種の恐れを抱く。セリフを聞いた時、ぼくは頭の中で「ヒカリは(詩歌の、小説の)事実を知りたいのではなく、詩歌が描いた想像を知りたい」のだと自動変換していた。繰り返しになるが、事実はいったん存在すれば、忘れる一方に進んでいく。対して、想像は膨らませるほどに無限に広がる。ヒカリは、まだ詩歌との思い出を作っていたいのだと望んだのだ。

ラストシーン

物語は、寧から送られた栞を挟む本を探すシーンで、半ば唐突に終わる。読書会がどれくらいの頻度で開かれ、物語が進むにつれて増えているのか減っているのかも分からない。それでも、いつかは減っていき、開かれなくなるのが時の摂理だろう。いつか、残された人たちは詩歌の小説から離れ、他の小説に移っていく。それもまた更新であり、更新して物語は終わる。それでもそこに古本屋が、小説がある限り、更新の連鎖は耐えることはない。


 P.S.物語の答えを探すのは、ヒカリのいう「同じところ」を探すことに当たるのかも知れない。この文章が、「違うところ」を探す間違い探しのように、物語を広げる1つであればと願う。

                                   まみや


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