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Re:Start 2024/06/12

 この写真自体が第二次世界大戦直後の東京だと信じられるかどうかは別として、事実である。杉並のサナトリウムでの、結婚前(出会って何年ごろか)の両親と当時の看護師さんである。この看護師さんには私が19歳で盲腸になった時、ここが総合病院になった時にお世話になった(その時は確か外科の婦長さんになられてた)。
 東京が焼け野原なのに、この穏やかな感じはまさにファンタジーだ(苦笑)。しかも、すでに洋装だし・・・。いや、母はモンペを履かなかったと聞いているので、当たり前の服装なんだろうな。

 遅まきながら、65歳になってしまった私はこの二人からできた多少問題児だった。陸士(今の防衛大かな)を出て、東大の仏文科に入った亡父と結核にさえならなかったら、歯科医になっていたであろう医大生の母。頭の出来は残念ながら遺伝せずに、幼い頃からテレビの特撮、アニメに夢中になってしまい、勉強頭は「中学受験」のためだけに使い切ってしまった。
まあ、父の映画好きと文学系のカケラだけはもらったらしく、文学、語学はそこそこの成績を取っていた。あとは全滅・・・。脚本で食えたので、プラマイ・ゼロといったところか。
 それにつけても、周囲から「ボンボンとお嬢の結婚」と言われていたのがよくわかる写真だ。あの、日本がボロボロになっていた昭和20年代にこういう写真が撮れてること自体、映画のようだと思う。連合軍恐るべし。
 そして、昭和30年代後半に私は「鉄腕アトム」に齧り付いていた生粋のアニメオタクになっていた。
 フと思うに、この時両親は「結婚する」と決めていたのだろうか・・・。二人とも手術で片肺になっていたわけだから、もしかしたら、まだそこまで考えていなかったようにも思う。なにせ、母はわがままな人だったから、よく離婚されなかったなぁと、不思議に思った。当時にしたら、かなり前衛的な夫婦だったと思う。
「結婚指輪ありません」「結婚記念日覚えてません」けれど、ティーパーティー形式の式は私学会館でやっていて、ウェディングドレスとタキシードの記念写真はあるという・・・。
 とにかくよくわからないのだ。
なにせ父は私が17歳で逝き、母は57歳で身体障害者になったので、スィートな話はほとんど聞いたことがなかったから。
 気がついたら、いろいろと大騒ぎで、とにかく私が書き続けなければ生活ができない事態になっていたためだ。せめての救いが夢にまでみていた「脚本家」として食えてきたことかもしれない。
本当はアニメーションやラジオに足向けて寝られないのだが、今の私はその辺のことをコロナ前あたりから棚の上に置き去りにしているのだ。
たま〜に、ちょっとのぞいたりもするが、それは「どう始末をつけようか」と思う時ぐらいになってきている。
実に申し訳ないことなのだが・・・。あ、年金の手続きせねば・・・。


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