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死にたい昼下がり

仕事でがっくりする事があった。毎日にこにこ接客していようが、やはり落ち込むこともあるわけで、それをどんどんと溜め込んで、溜め込んだどろどろの沼の中でもがき苦しんで、死にたくなる。そういう事が一年にたぶん4回くらいある。他の人間がどれくらいの割合で死にたいと思うのか、知らない。毎日呪文のように死にたいと呟いている人間もいるだろうし、ある時ふと死にたくなる人間もいるだろう。それぞれの死の基準を他人に押し付けることはできない。

仮に今一緒に死んでくれる人がいたら、死んでしまうかもしれないと思い、死について語ったことがある子に、声を掛けようとして止めた。そうだ、彼には最近恋人ができたばかりだった。

私にも人並みの幸せがあるはずだ。帰る家がある。待ってくれている家族がいる。こんな私にでさえ優しくしてくれ、笑顔を振りまき、手を伸ばしてくれる人間がいる。

死にたいと、死のうは、根本的に違う。死にたいと心の中で思っていても、それを実行に移そうとする自分はまだ遠い。私は死にたいとは思っていても、死のうとは思わない。そして、心の奥深くでは、まだ死にたくないと願っている。

死にたいと思っている人間に、死はなかなかやってこない。だから私は時々こうして頓服的に自ら死を願い、死を遠ざけようとしているのかもしれない。

家人に疎まれ、暴言を吐かれている人間はたいてい社会に当たり散らし、社会に疎まれ不条理な扱いを受けた人間は、家族を蔑ろにしたり、暴力を振るうようになる。では両方に疎まれ、ひどい扱いを受けている人間はどうすればよいのだろうか?何かに当たり散らすのは、よくないことだと思うけれど、理不尽な人間というのは、生きていると必ず出会うわけで、ほとんどの人間が完璧でないように、それは誰もが持ち備えていることだ。私があなたを傷つけてしまうことだってあり得る。

私の明日は来ないかもしれないし、世界中の明日死を迎える何千人かの今日は、その人にとって最悪なものかもしれない。死を自ら遠ざけて、汚らわしいと感じる人間もいるし、私のように常に死を友達のように隣に侍らせ、安心感を得る人間もいる。

厳しい人間、やさしい人間、愛情表現のうまい人、不器用な人、一緒にいて楽しい人、気を使ってしまう人、様々な人間の中に、自分との共通点を見つけた時の喜び。人間は一人ではないということ。人間には心があるということ。そんなことを考えると、涙があふれて止まらなくなるということ。

それなのに死にたいと思ってしまうことが、悲しい。

明日という、希望をぶら下げた不条理な場所が存在する必然さが、残酷。

私は、どこに行きたいのかも、何をしたいのかも、全くわからない。

わからないまま、朝を迎えるのが、本当に怖い。

これが、コンピューターのシュミレーションで、私は架空の魂で、そんな事を考えるために産みだされたとしたのなら、それを考え出した存在を抹殺したい。

私は、私であることをやめるのが、怖い。

ただ、おかあさんのような暖かい存在に抱きしめられて、守られて、安心を感じられる朝を迎えたい。

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