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言葉を。

お久しぶりです。noteを今年さいしょでさいごに書きます。一年ぶりですね。
ながらく文章を書いていませんでした。
でも今日はすこしだけ書けそうなので、このまま一発書きで書いていきますね。

もうすぐ本当の冬がきます。
雪がふったり、チョコを交換しあったり。

みなさんはどんな風に温かい時間を手に入れていくんでしょうか。

わたしは今月末、東京にでてはじめての引っ越しを経験します。
4年間住み続けた場所をすこし離れて、畳のお家に移り住むのです。
築は古くて、すごくさむそうですが、なんだか温かみのあるお部屋です。

4年間の暮らしをふりかえると色んなことが書けそうなのですが、なんとなく今はそんな繊細な気分でも、エモーショナルな気分でもなく、
とにかく未来を見つめるような時間がふんわりと続いている感覚です。

未来は自分が思った方向へ必ず行く。未来が今をつくる。過去によって今はつくられない。

だから過去を愛しく思うのはもう少し先にしたいなと思います。

過去を振り返ることがなぜかとても好きだった時期もあります。

前に進むのがこわかったからだと今は思います。

「あれ以上に素敵な景色はないし、見れない。」

過去に自分が見た中で奇跡的に美しかった海外での海の夕焼けの写真を何年もそう思い続けていました。
そこにいた人達のことも想い続けていたのかもしれません。

でも、なぜか最近はどんな景色もそれに勝るようになり、過去はちゃんと過去へと流れるようになりました。

「今」を生きている証拠なのかなと思います。
決して今が充実しているからとか、幸せだからとか、そんな単純な理由だけじゃない気もするし、そうなのかもしれません。

忘れっぽくなった気もするけれど、

毎日ちいさく何かをあきらめたり
毎日ちいさく何かを手にしているような感触が心にあるからかもしれません。

たぶんこれは誰かのおかげとか、誰かによってではなく、自分の心の環境を整えるしかないことなのだと感じます。

ここでひとつ、わたしが胸に響いた仏教の「貪欲」のお話を書きますね。

どこかで聞いてノートに殴り書きしたもので、覚えている範囲ですが。

「捨てる」ことの大切さ。
それは「拾うため」です。

心の根に一つでも「貪、怒、愚」があるときの自分がどれだけかなしくて、さみしいものなのかを考えさせられる言葉達。

さよならとはじめましては同じときにおこるような気がします。
どちらかだけなんて、きっとないでしょう。

捨てることが拾うことになるような心の豊かさを、何歳になったら、それこそ本当に拾えるのでしょうか。

自分がそこにたどり着ける日まで、いのち尽きる日までむりかもしれませんが、何度も思い出したいものです。



貪りは、満足を得たいところから
怒りは、満足を得られないところから
愚かさは、不条理なところからくる。

貪り、怒り、愚かさは、
熱のようなもの。

どんな人でもこの一つを持てば
どんな広い部屋にもたれても
熱に打たれて
寝苦しい夜を、過ごすことになる。

人の欲には際限がない。
海の塩水を飲み続け、永遠に喉を乾かすように。

「愛欲」は煩悩を生む。
欲望は煩悩の目を増やし、心の善を食う。
愛欲は花に隠れ住む毒蛇。
愛欲は木を枯らす蔓草。人の心に巻きつき、心の水を奪い尽くす。

しかしそれはすべて、疲れとなり悩みとなる。

「愛欲」は人の心を決して
養わない。

心に貪りと怒りと愚かさがあれば

口には偽りと無駄口、悪口と二枚舌が生まれる。

偽りを言うようになると
平気で悪いことをするようになる。

愚かさは実に人の病毒になる。

しかし
人はその輪廻から逃れる術を知らない。



まだ続くとおもうのですが、わたしのノートはここでおわっていました。

これは愛を与えるよりも、ほしいほしいと歌ってしまうような心の貪欲さが自分を蝕む、

胸がつっかえたとき、どんな状況でも、ふりかえると「貪欲」さによって失ったことは多いなと思わされる教えです。

なぜ、これをここに今日書きたくなったのかはわかりませんが、誰かにとっても救いになるような言葉だと思ったので書き残しました。

ときには優しい言葉より、戒めの言葉が
救いの言葉、きっかけとなるような気がするからです。

明日はどんな一日になるでしょうか
今日はどんな夜になるでしょうか

今日はこんなところにしておきます。
長く書くと、本当の気持ちがどんどん薄くなってくる気がするのです。

明日も皆さんにとって素敵な一日となりますように。

最後に、

今日もがんばったね、ありがとう。*

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