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東大教育学部批判への応答から炎上中の隠岐さや香先生に贈る燃えにくい応答例

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先日、東大教育学部に対する強烈な批判があった。

まあ、正直、非常に大雑把な批判であり、学生・研究者個々人には承服しがたい部分もあろう…。

とはいえ、東大教育学に対する批判とするのであれば、それなりに程度理解できるものであると私は考える。

「戦後(左派的)民主主義」を奉じる日教組教研運動の先鋭化した理論に批判的な研究が、これっぽっちもでてこなかったのが、東大教育学部を頂点とする教育学界だと私は考えている。

しかし、愛沙奈氏の批判は、かなり大雑把なので、学生や若い研究者を守るといった観点では、多少批判はされてもしゃあないかな…。

まあ、愛沙奈氏は、全部をゴミといってるわけではない…とはいえ、言われた側はそれなりにショックだろう…、

しかし、隠岐さや香、東大教授から出てきたのは…

どうやら、「人文系disりの教育学部版」と捉えたようだ。
んで、後から出てきたのがこれ。

学生を守るという建前をだすなら、後付けじゃなくて最初にやらなきゃだと思うのだよね。



そして、お決まりの「曲解」説

ああ、炎上間違いなしコースですね。


さて、ここはひとつ、隠岐先生サイドにたって、はじめの愛沙奈氏の批判にどう対応していたら、隠岐先生の炎上の余地がなくなっていただろうか?と考えてみた。

隠岐さや香先生に贈る、燃えにくい応答例

このくらいの応答を初発でやってたら、燃えなかったのでは?という文章を作ってみた。

==ここから==

『貴殿の書き込みを拝見して、東京大学教育学部の学生や大学院生の尊厳を守る立場にある私としては、貴殿の発言における「修論」「卒論」に対する大雑把な「ゴミ」批判は、いささか不穏当であるとの見解を出さざるを得ないものと考えます。

そもそも卒業論文・修士論文というものは、教育学研究に携わる学生が、指導教官の指導を受けながら制作する教育活動のなかの知的活動であり、指導にあたっては、学生の知的オリジナリティを尊重するために、テーマ選定やタイトル設定がある程度未熟であっても、そのままの形を残すこともまた重要な教育的意義があると考えます。

また、成果物は、卒論、修論を制作する学生本人の個人的体験に帰属し、学生個人の尊厳に連なる部分もあります。その内容を十分に吟味しないまま批判されますことは学生個々人の尊厳を傷つけることになりはしないかと憂慮いたします。

さらにいえば、修士号取得者が必ずしも教育学研究者としての道を歩むとも限らない実情もあり、東大教育学批判において卒論・修論を根拠にされるのはいささか納得できない部分もございます。

貴殿におかれましては、教育的側面もご考慮いただき、東大教育学部に対する批判がおありでしたら、博論以上の論文、及び、教育学研究指導に携わる者の論文・論考をもってその論拠としていただけますようお願いする所存でございます。』

===ここまで===

まあ、初発でこういう書き方をしないで、瞬発的に「マウント!」「攻撃!」っていっちゃうから、しばしば炎上されるのではないだろうか。

学生を盾にせず、学生を守るというなら、自分が矢面に立たなきゃね。


愛沙奈氏は、隠岐氏の発言を、同和差別の文脈でとらえて東京大学に抗議をするらしい。

隠岐氏の該当発言の一部が、部落差別における「非人」に相当するかはちと脇においておいても、隠岐氏の今回の発言は、山口二郎氏の「安倍は人間じゃない、叩き切ってやる」発言と似たような罵倒であるだろう。

愛沙奈氏の経歴如何では「非・人文系」も罵倒になりうるケースも考えられる。

日本語は「論理内包力」がすこぶる高い言語である。欧米言語に比べ「文脈依存度が高い」といって批判されることもあるが、逆の見方をすれば欧米言語が冗長に過ぎるという見方もできる。

「文脈」は意図せずとも発生する場合がある。意図しない文脈をできるだけ発生させないためには訓練が必要である。

そして、隠岐氏は東京大学教育学研究科の教授である。
自らが意図しない文脈の発生を、予防するような文章作りを教える立場ではないだろうか?

「曲解です」は、素人目にも見苦しいと思う。



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