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平田オリザ氏炎上事件から浮かび上がってきた、経済再生への鍵は「つっこみ力」ではないか?という話

新型コロナウイルス関連の自粛における苦境は、あまたの業界を襲っている。

私自身、極端なシーズン特化型商売やってるため現時点での影響は大きくないものの、これから先の減収はほぼ間違いない。

来年の正月を無事にむかえたいもんだ~ いや、迎えられるか…というのは、かなり切実な問題である。

関連業界の再編も起こるだろうから対策を考えざるを得ない。社会の動向は注視せざるを得ないので、情報収集につとめていたわけである。


そんなさなかに平田オリザ氏の炎上案件を目にした。

平田オリザ氏といえば、演劇方面だけでなく「コミュニケーション教育」でも盛んに活動している人であり、鳩山内閣では内閣官房参与をつとめた人物である。

さて、今回の炎上を見ていて、氏の用いる主張パターン(つまり、氏以外にもよく似たパターンを使う人は少なくない)が経済社会へ少なからぬ影響をあたえてきたかもという疑念がわいてきた。

それを語っておくことにする。

  


2020平田オリザ氏炎上事件における言説を外周からよみとく

演劇人、脚本家としての平田氏の仕事はとりたてて興味がないのでそれを批判するつもりは毛頭ないことを断っておく。

炎上の火種はNHKのこの記事と思われる。

 

氏の主張は、氏の関係する演劇含めて文化芸術に対しても寛容を、というものだが、どうにも主張の方向性がいただけなかったようだ。

そしてあれやこれやの反論や炎上そのものに対する反論がさらにいただけなかった、さらに演劇界の一部にが恒常的に抱える「食えない」問題もあり、過去の平田氏の発言等もあまた掘り起こされたといったところだろう。

炎上経緯については、ヒラヤマ タカシ氏が詳細にnoteにまとめてくださっている。コミュニケーション教育にまでふみこんだ非常に冷静な分析だと思う。

 

炎上となると、あれやこれやがでてくる。小劇場系の構造的な問題まで話題になってくる。

そしてポロリととび出てきたのが下記だ。

私も、はじめツイートが流れてきた時点では、「役者は食えない」というのは事実としてあっても、最低賃金以下という金額をまさか公言はしないだろうと思ったのだが、ソースつきツイートが流れてきたので確認してみた。

インタビュー記事ではあるが平田氏自身が公言したといってよさそうだ。2009年の記事ではあるものの、当時の東京都の最低賃金が791円であったので、最低賃金を大幅に下まわる数字である。

また、平田氏は、豊岡の観光芸術大学構想に関連してこう記す。

劇団が地域に貢献できる方法はいろいろあって、例えば若い劇団員は東京でバイトをしながら役者をやっていますから、豊岡でも旅館や農業のお手伝いをしながら演劇をすれば、人手不足の解消につながる。

平田氏は「演劇」の中で「役者は食えない」を解消する気はあまりないようだ。

「食えない役者問題」は本論とはずれるので、下記を挙げるにとどめよう。

 

「借金は現象」という言説は成り立つか?

炎上風景を眺めつつ、時給300円の記述の記事5ページを読んでみた。

なかなか興味深いものが飛び出してきた。2012年、こちらもかなり前のものだ。

アゴラ劇場の借金についての言説がなかなか興味深い。

平田氏がアゴラ劇場に関わる借金を父君の平田穂生から相続したことはわりと有名なようだが、その債務が、その後どうなったかについてのインタビューである。

平田 いや、全部は返さないんですけどね(笑)。

-えっ、完済したんじゃないですか。

平田 返してませんよ(笑)。借金というのは、内田百閒の名言にあるように、現実ではなくて「現象」なんです。幻ですから実態があるわけではありません。だって、1億円なんて、見たことないでしょう。

なんとも狐につままれたような話である。

読み進むと、日々誠実に働いている中小企業の社長さんたちが憤死しそうなセリフがならんでいる。

中小企業はどこでもそうなんですが、例えば1億円借りるとすると毎年利息を含めて1000万円ぐらい返さないといけない。実際はもうちょっと多くなりますが、分かりやすくするために1000万円としましょう。でもそんなの全部は返せません。元金500万、利息500万円とすると、まず元金のうち100万円を返済できればいい。そうすると…

…こういう資金繰りが中小企業経営者にとって最も重要な操作なんです。ぼくは23歳の時から25年ぐらいずーっとこれをやってきたので、銀行関係は随分強くなりました。

銀行や投資家から資金を調達し、生産し、利益を上げ、返済していくことで経済成長につなげていくという資本主義経済下における融資の役割をすっぽり無視した「自転車操業経済」である。

もちろん現実としては様々な要因で「経営を維持する」ための融資が存在することは否定できないし、全面否定されるべきものではない。

それは、期待される像働く人の生活基盤としての企業体を維持するといった側面、企業存続による産業維持や、周辺経済への影響といったものを総合的に考慮した上でのでのことである(新型コロナ対策として行われている融資はこのタイプだ)。

とはいえ、返済するつもりもなく、働き手に最低賃金すら支払うつもりもないとなったらそれは「社会への甘え」といわれても仕方ないのではなかろうか?

このスタイルが社会に蔓延すれば「経済の停滞」を招く危険は十分にあるといえるだろう。この点については後で述べることにする。

 

もう一つ興味深い部分がある。 

助成を得るためのテクニックについて平田氏はこう語る。

自治体も国家の助けもホントは要らないけれど、活動の公共性を認めるなら、助成をもらってさらに新しい活動、社会的な活動ができますよ、ということを伝える。多分そこが、ほかの劇団といちばん違うところだったと思います。そういうことを考えた演出家は、少なかった。ぼくは、それを銀行との付き合いで学びました。

総合してしまえば、氏は、説得技術で融資や助成を獲得し「食えない層」を作りながら自転車操業を継続してきたということのようだ。

なかなか高度な技術かも知れぬのでそれを含めて平田氏の言説を分析していくことにする。

  

「騙し」の構図はあったのか否か?という問題

さて、平田氏の言論についてもう一つ挙げる。

以下のページで、氏は演劇の抱える矛盾について語っている

以下引用。

要するに、劇団はそれ単体では原理的に金にならないから、若い人たちをだまさない限り絶対に存続しない。いつもずーっと文化大革命しているようなもんだから。「毛沢東だ!」って言って若者をついてこさせないといけない。

少なくともぼくの活動の中に新しいところがあったとすれば、「だましているんだ」ということを、はっきり言ったことでしょう。それが革新的だったと思うんです。それまでは、だましてないことにしていたし、主宰者も騙していないと思い込んでいた。でも、劇団というのは、若者をだましてるんだと。だましていることを前提にして、お互いに納得ずくで契約を結ばせようというところまではきた。

どうやら、氏の想定する演劇活動、舞台芸術は若者を騙さない限り存続しないようである。

ここで二つの問いが発生する。 

1)騙すことを前提の契約は成り立つか?

内輪において暗黙のうちに「騙し騙される」関係というのはあり得ないとはいえないが、公言したとたんに「騙す」ではなくなり「一方的に不利な契約」となると考えるほうが妥当だろう。

相手が知らない場合は単なる「騙し」でしかないので、契約は成り立たない。

2)騙すことを公言することは」革新的だろうか?

「ウソつき」「詐欺」となりかねないことを公言する人は少ないだろう。ある程度分別がある人はやらないし、たとえ騙す意図がある人でも、公言したら非難される可能性もあるので公言する人は少ないだろう。


今回、平田氏の発言意図やその是非には触れない。

ここで言えそうなのは、平田氏が「騙し」という手段を目的達成のために自身に許している可能性があるということである。

  

ドキュメンタリー映画「演劇2」における平田氏の発言から

平田氏は長年「コミュニケーション教育」や「演劇を教育に取り入れる」することが今日の社会で必要であるという主張をしてきた。

想田和弘監督の「演劇2」というドキュメンタリー映画がある。平田氏の活動そのものを映画の素材としたものだ。

想田氏は「観察映画」としてこの「演劇2」を作っていると自ら述べている。つまりフィクションではないという前提でまず考えていこう。

中盤、平田氏と劇団関係者とおぼしき女性の間のやり取りが映されている。

平田氏が教育に取り組む理由について問う女性に対し、平田氏は演劇の価値を相手のコンテクストに合わせて説得していかなければいけないというところから語る。

そして、さらに次のように語る。

その時に、じゃあ、まあ、だれに語っていこうかというときに、教育っていうのは非常に強いツールであることはまちがいない。別に教育だけじゃなくていいんですけど、

教育というのは非常に多くのひとが共感しやすい分野であって、その中でも今はコミュニケーションというのが 非常に説得ざいりょうとしては、ほんとうに強い説得アイテムであることは間違いない。僕自身はなんでもいい、演劇を見たりやったりする人が増えれば…

で、なんか、それを、こうでなくてはならないとか、演劇を手段としてではなく演劇そのもので語らなくてはならないとか、ま、その、気持ちはわかるけどつまらない議論だよね。

この語り部分にフィクション性がないとするなら、平田氏にとって「教育、コミュニケーション」は、演劇の重要性を世間に対して説得するためのツールでしかないということになる。

もし、平田氏がこの部分を「これは映画ですから」と否定するのであれば、想田氏の製作意図である「観察映画」という部分が成立していないということになる。

前者であれば「コミュニケーション教育」「演劇を教育に採り入れる」といった氏の主張は、「演劇を広めるため」の一手段でしかなかったことということになる。すなわち、影響力の大きい分野を選び、受け手のコンテクストを意識してつくられた虚構だ。

後者ならば想田氏が平田氏に一杯食わされたということになる。

いずれにせよ「騙し」はあったと考えてよいだろう。

どういった形でそういった平田氏の指向性がかたち作られたかについて、その片鱗をうかがい知ることができそうな記事を発見した。

 「人と違わないと駄目」。劇作家、平田オリザさん(51)は、シナリオライターだった父、穂生さんからこう言われて育った。

 自身が作家になることを夢見ていた穂生さんは、オリザさんが4歳の頃から、あらゆる場面で文章を書くことを求めた。欲しい物があるときは穂生さんの名前入り原稿用紙に、「なぜそれが欲しいのか」「買ったらどうなるのか」などを書き込んだ「企画書」を示さないといけなかった。

平田氏オリザ氏は、氏のの意思とは関わらず幼少期から、父君の平田穂生氏に企画とプレゼンテーションの英才教育?を受けて育ったようである。

発信が全てである演劇方面にはその才能は生かされたのかも知れぬが、その英才教育は「騙さないこと」すなわち「他者を尊重すること」には及ばなかったのかも知れぬ。

 

「信義」と「金融的信用」の乖離がもたらすもの

金銭の貸借というのは、元本及びの支払いの義務が生じる契約である。
 
債務を「実体がないもの」と平田氏が公言しているというのは先に紹介した通りである。

この前提であれば「賃金」という債務に対してもいい加減であり、団員の生活苦を含み続けた形で劇団なり劇場を経営していくというのは極めて一貫性がある行動といえよう。

ここでもまた、その倫理的な是非は問わないでおく。

 

「自転車操業前提の活動」に金融資金が回ることの問題 

債務の実体性を無視する法人なり組織に、活動資金が投入されることの問題を論じたい。

自転車操業を続けるという策のもと、賃金をろくに払わず、他者から資金を調達して活動の幅を広げる、これはすでに産業としては成り立たっていない。

こういった企業・団体に融資なり助成が行われるということは、実質成長がマイナスになるの可能性が高い企業や団体に資金が回るということだ。

もちろん、社会的な価値というのは、個々人が判断することでもあるので、個人的な寄付や支援であれば問題ではないだろうし、多くの人が公共性(社会全体に対する利益につながる)を認めるようなものについては資金が回るほうがよいであろう。

しかし、融資や助成というのは自ずと枠がある。

自転車操業前提で、従業員のブラック労働を前提とする経営をする企業・団体に融資や補助金が流入すれば、(公共の利益を含めた)実質的な回収は見込めない。

つまりその資金は流れない、滞留する、すなわちただの数字になる。

資金の滞留が増えれば、生産にも公共にも寄与しないので当然の成り行きとして経済は停滞せざるを得ないだろう。

上場企業であれば、自己資本率について投資家が厳しい目を向けるが、中小零細の企業ではそういった目をむける人は多くはないだろう。

中小零細企業の決算を見るのは出資者や金融機関の融資担当者や税務署くらいではないだろうか?

以前から、日本の中小零細企業では自己資本比率が低いことが問題になってはいたが、同時に金融機関の貸し渋りという問題もある。

上場企業にあっても「下請けいじめ」と言われる転嫁が水面下にあると言われて久しい。

どうやら「お金」は回っていないようだ。

  

「お金に困ってはいないけど、資金があればこんなにいいことが」論法の落とし穴

ここで再び平田オリザ氏の言説の分析に戻る。

再度繰り返すが平田オリザ氏の芸術自体には特に批判はない(そもそもろくに知らない)。

今回の新型コロナウイルス感染症流行で、音楽も演劇も、ライブでの発信については2020年の2月末頃から自粛を余儀なくされている。確かに舞台演劇は確かに一番あおりを受けやすい分野ではある。

平田氏は新型コロナ流行初期からかなりメディアに登場している。

次のリンク記事は2020年3月18日付だ。

ここで氏は芸術家への支援が必要だと語っている。

この時点でもそれなりにプチ炎上くらいはしていたが、小規模な範囲で留まていた模様。これが真意だとすれば、その一か月後に登場した下記の記事は一体何だったのだろうか?

「芸術を支援しないのは損失」ということを切々と訴えている

プライドが高く頭を下げられないのだろう…と片づける人もいたが、本当にそうだろうか?

冒頭であげた2012年の記事をちょっと振り返ってみる。

助成を得るための手法について平田氏はこう語っている。

自治体も国家の助けもホントは要らないけれど、活動の公共性を認めるなら、助成をもらってさらに新しい活動、社会的な活動ができますよ、ということを伝える。多分そこが、ほかの劇団といちばん違うところだったと思います。そういうことを考えた演出家は、少なかった。ぼくは、それを銀行との付き合いで学びました。

2012年から「活動の公共性」を訴え、その結果イメージを示すことで平田氏は自治体や国家、金融機関から資金を引っ張り出してきたようだ。

2020年の炎上でも平田氏の主張は、完全にこの「銀行との付き合いで学んだ」というパターンをそのままである。

 

平田氏のインタビュー記事から構造を整理してみよう。


私たちのプランor活動には公共性がある。

(我々が考える)プランor活動を、実現or継続できないことは(我々の考える)公共の利益を損なう。プランを実現or活動をすると継続公共の利益が得られる。

起こっているであろう(と我々が考える)架空の損失例を列挙する。

(我々が考える)公共性の枠を多方面に拡大してさらに語る

多方面への影響も含んだ(我々の考える)架空の損失例をさらに挙げる。

海外の良いと(我々が)思う例を引き合いに出し、先にあげた仮想損失をさらに印象付ける。

得られるであろう公共の利益のために、(我々の)活動or提案は、支援or継続or実現されるべきだ。

この論展開のどこが問題か?を検討していこう。


架空の損失であること ありもしない損をあるかのように見せて「やらないと損」という印象を与えるという手法は、押し売りやサムライ商法等でよく使われる手法だ。

「あなたは選ばれました、いまなら30万円で特別講座が受講できます」→「締め切りは明日です、このチャンスを逃すと…」

これは完全に悪徳商法だが、架空の損失を印象付けるパターンとしては類似性が高い。

もう少しマイルドなものとしては

「あなたが不幸なのはわけがある…このセオリーを知ればだれでも…」

自己啓発本の帯によくあるパターンだ。

 

架空の損失が「可能性」として語られる場合、話者は責任が回避しやすい。 

可能性に言及するだけの場合、損失だと判断するのは受け手であるため、話者の責任は問いにくい。

追及されても「あんたが勝手に判断したんだろう」という反論ができてしまう。

 

架空損失を回避することで得られる利益を享受するであろう範囲の想定を拡大することで反論が難しくなる。

もともと損失が「架空」であるうえに人権や教育等に拡大して、社会全体にまで受益者範囲が拡大してしまえば「それは本当か」という部分での反論が難しくなる。

 

上の記事から少し引用する。

私たちは「芸術家に支援をしてくれ」と国家にお願いしているわけではない。支援されるべきは、文化を享受する権利を奪われた国民、特に子どもたちだ。この点においては、私たちは、そのためのコンテンツを提供し、正当な対価を得るに過ぎない。

繰り返すが、アートは、「足りなくなったら緊急輸入」とかができるジャンルではないので、継続的な、そして持続可能な支援が求められる。ただ、他のものと同じで、文化も芸術も、なくなってから(奪われてから)その大切さに気がつくものなのだけど。


図解してみよう。

平田氏のコロナ以降の主張はこういったもの。

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「わかりあえないことから」における、コミュニケーション教育に関する主張はというと、やはり似たようなパターンになる。

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今回、このパターンが通用しなくなったのは、彼が持ち出した「例え話」が、現実からあまりに乖離していたこと、そして、現実が余りに厳しいが為に、人々が「未来の架空の損失」などというものに心を動かされる余地が少なくなっていたのではないだろうかと考える。

 

どのようにプランを検討すべきかという問題から

あるプランに関する検討は、以下のような多方面からというやり方がある。

1)解決すべき問題は何か?

2)その問題は重要か?

3)そのプランは問題を解決するか?

4)実現可能なプランか?

5)実行した場合メリットがデメリットを上回るか?

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上記は私が考えたものではない。

5 Stock Issuesという定番の検討図式である。がばっとまとめた訳語がないのがちと残念なのだが、ある意味常識的なものだと思う。

さて、繰り返しになるが再び平田氏の芸術支援論の図を引っ張り出す。

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上の図の黄色い部分「その問題は重要なものか」の話に終始していることは明白であろう。

「解決すべき問題は何か?」「そのプランは問題を解決するか」「実現可能なプランか」「実行した場合メリットがデメリットを上回るか」がすっぽり抜けている。

日本語というのは、主語が抜け落ちがちである。そのために説得性を増すために冗長性を上げた場合、必要な要素が抜けおちていても、聞き手あるいは読み手側がそれを気が付きにくいといった部分がある。

平田氏の発言における説明の抜け落ちが意図的なものかそうでないかは全くもって定かではない。

もしかしたら、平田氏が「悪意のツイート」と断ぜずに、上記のような抜けている部分について語ってくれれば、炎上が長引かなかった可能性もなきにしもあらずだろう。

プランを検討する力と経済は繋がっている

平田氏の炎上の件を超えて、この類似パターンの「重要性だけ展開」の主張に、今まで金融機関や国、自治体が弱かったのであれば、問題は温存されてたままだろう。

プランよりもコンセプトが先行する企画進行は、近年かなり隆盛をきわめたように記憶する。特に公共投資や社会起業等においてコンセプト先行のプロジェクトは少なくない。

国、自治体の資金投入先、民間金融機関の融資先の選定に上のような「重要性だけ展開」の主張が通用していたとなれば、社会に還流されないお金となってしまうことは十分に懸念される。

平田氏は演劇だけでなく、長年コミュニケーション教育を推進してきた。

一部教科書にも採用されているのは周知の事実であるし、コミュニケーション教育の一環として演劇的な表現を授業に取り入れようとする動きもすでにあり、関連の団体もあるし、多数のプロジェクトがすでにうごいていたようだ。

そして、経済界にもそれを支持する動きもある。

だが、氏の訴えるコミュニケーション教育に「他者理解」という観点や「双方向性」がないことが、今回の炎上で露呈してしまった以上、それらは路線転換するしかないところにたたされているといったところだろう。

すでに多額のお金が動いている。

仮にだれも私腹を肥やしていなくても、あちらこちらから社会的投資がされている。それがあまり成果につながりそうもないという可能性は否定できない。

となれば、少なくとも、プランを詳細に検討する力を強化することがリスクを低減することには役立ちそうだ。

 

未来を語ることは難しいが…

未来を語ることは難しい。誠実に語ったところで理解されるとは限らないし、予想外のことが起って頓挫するというのも往々にしてあることだ。

新型コロナウイルス感染症がまだ日本に迫ってなかった昨年の今頃、非常に堅実な資金計画のもとに飲食業をスタートした人がいたとして、果たして今回のコロナの影響を逃れ得たか?というと、難しかったと言わざるを得ない。

想定外のことは「起こりえる」し、人は人でしかないので失敗も起こる。

だからといって、未来を語るべきではないとも思わない。

未来を語るときに嘘や詭弁を弄さないこと、いたずらに人を貶めない、すなわち、誠実であろうとすることはことが必要であろうというだけだ。

優れたアイデアを持ち、かつ誠実な人々に資金がまわるのであれば、投入された資金が死に金になってしまうことはかなり防げるのではないだろうか。

  

これからの経済を考えていくために必要なこと

2020年5月現在、新型コロナ関連自粛などによる経済的なダメージはすでに各所で発生しているのは明らかである。

緊急的な支援策も各方面で実施されてはいるが十分とはいえないだろう。

この先、企業規模をにかかわらず、企業では金融機関等を通じて資金を調達したり、あるいは、公的な助成をうけていこうとする動きは活発になるだろう。また、新たな業態での起業も活発になるだろう。

資金需要は確実に増加している。

どういった方向で経済活動を再生・活発化されるべきかという論議についても盛んになってきているようだ。

だが、夢をおいかけるよりも足元を見ておきたい。

往年のネット論客やまもといちろう氏が、再生・活発化の前の「ありかた」に関して、かなりシビアな話をYoutubeでしているのでそれを紹介しよう。

「事業の縮小しかた」「解雇」といったところに踏み込んだ、かなりキツイな話しであるが、「再生」のための重要な視点が多く含まれる。

このなかで、「どこからか資金をあつめてきてたラッキーな人」という種類の人々がでてくる。上り調子のときはそれでなんとかいけちゃった人かもしれない。

その彼らにやまもと氏は「今できることちゃんとやった?」と問う。

なるほど、経営が苦しい時に「縮小」というプランを速攻で採用できる企業のほうが「再生・復活」の可能性も高いだろう。

一過的に失業者を生む…が、雇用創生への可能性も高い。

コロナ以前から、ブラック労働、下請けいじめ、助成金頼みの経営拡大、コンセプトだけプロジェクト等、一部の企業の問題ある経営体質は取りざたされてきたが、殆んどの場合、倫理的な問題としてとりあげられるのみであった。

これらは実は「プランなき経営」の成れの果てなのかもしれない。

産業としての価値の創造に、ビジョンやコンセプトももちろん重要だが、プランのシビアな検討もまた必須なのではないだろうか。

既におこりつつある右肩下がりの不況においてブラック労働や下請けいじめといった含み損を前提の経営拡大や、助成金頼みの経営拡大プラン検討なきコンセプトだけプロジェクトなどを続けてきた企業を、淘汰していくことは重要だろう。

このことが、今後成長する企業に資金を回すことに、ひいては経済の成長をうながすのではないかと思う。

そのために必要なのは、雰囲気や冗長性に流されずに、事実を直視してプランを検討する力=突っ込み力ではないだろうか?

 

…と、大きいことやるアイデアもないので、分析趣味を生かしながら地味~に小銭商売をやっているオバサンは「あー、2021年の正月を無事にむかえたいもんだ」と思いながらつらつらと考えたのであった。

おわり

おまけ

今回、ふと見た炎上を契機に、平田オリザ氏の著書や発言をあれこれ読んで、ついでに「わかりあえないことから」も読み返したわけだが、平田氏が「間」「冗長性」「対話空間」というものを非常に重要視しているのはわかった。そして、そこいらに関する視点にはなかなか興味深いものもあったように思う。ネット空間におけるそれらについての見解をきいてみたいな~などと思った次第。



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