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20200426 マスクとねこと無意識との闘争 (at 精神と時の部屋)

ねこと病院に行った

こないだの昼休みに、同居しているねこを動物病院に連れて行った。病院もコロナ対策で完全予約制とのこと、マスクを忘れて、てれーんと訪れてしまったわたしは非難の目で見られ(あたりまえの世情なのだ)キッチンペーパーで作られた病院お手製のマスクをつけているようにと受付の人に言われました。おお…、かたじけない。

しかしマスクはまじのキッチンペーパーで顔半分覆うやつだったので、広げて着けたら一瞬はずかしいと思いましたが、それというのも顔半分にキッチンペーパーをぶら下げて公の場に居る状態なわけで、そんなことはこの先ないかもしれないと考えるとすぐに、たいへん面白い気分になっていました。こんな雑なマスクは私しかしていないぜ、へっへっへという気分。貰った物なのに…。

動物のお医者さんはねこの血を注射で抜きました。大変不憫だった。自然の中で生きていたらこんなこと絶対になかったろうに、15年前我が家に拾われてきた仔ねこは結果として3人の人間に組み伏せられるねこになってしまいました。小さなバックに詰められて移動をさせられるねこにも。 また、ねこが食べたものをよく吐くので、胃がどうかしてしまったのかということで毎日薬をあげることになりました。チューブからニュッと出したゼリーみたいなやつを指でぶりゅりと前歯の辺りに塗りたくるのです。毎日わたしが塗りたくっているので、たぶんあと数日で嫌われます。

あと本文に画像とかURLつける方法に今気づきました。もっと早く知りたかった。pcからしかできないやつなんだと勝手に思い込んでいた。

無意識を鍛える

最近の自分のスローガンみたいなのが「無意識を鍛える」です。まだ上手く説明できないので、「無意識を鍛えるをやっている」と一緒に住んでいる人に表明すると「へえ」と言っていました。無意識を意識するメモは4月13日にまず登場していた。高橋源一郎先生の本を読んでいた時のメモである。そのあと「無意識を鍛える」というワードが4月19日のメモに出てきた。

まだ一週間くらいしか経ってなかった。もう一ヶ月くらい気にしてる感じがしてたのに。努めて人に会わない生活をしているので、なんか自分の時間がびよーんと伸びている感じがする。一週間が一ヶ月ほどにも感じる。精神と時の部屋かい。

あと私はメモを見返すとよく「わかって」いる。分かってはいないな、と後になって読むと恥ずかしくなることが大変多い人生です。

無意識を鍛えるの話に戻ります。上のメモでは「意識ばかり気にしてたけど無意識こそやるべきだった」というようなことを書いているけど、精神と時の部屋にいる私は、さらに先の仮定をいま狙っている。それは「意識と無意識は両輪」というものです。意識ばっかりしていたので、意識良くない!と考えましたが、無意識が上手く走査するためには意識によって環境を整えてやること、(例えば知識の吸収とか解釈とか自分をいい感じに持ってく感じとか)が必要で、しかし意識だけでは形しか作れないので中身がふくらむには無意識が必要で、なのでどちらも必須な両輪ですということを今日頭を洗いながら考えました。私の無意識は「意識が居る」と感じると動いてくれない大きな生きものなので、意識は無意識に気づかれないように静かに静かにコトを遂行しなければいけないのです。

そんなようなイメージを持ちながら最近は過ごしています。


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