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The Hacienda... the club that shook Britain :ハシエンダーーイギリスを震撼させたナイトクラブ

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「(ハシエンダは)灰色の街だった80年代のマンチェスターに着陸した宇宙船だった」。マイク・ピッカリングは冒頭で、かの伝説的ナイトクラブをこのように表現した。

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ハシエンダがマンチェスターにオープンして今年で40周年。この伝説となったクラブを記念して制作されたドキュメンタリー『The Hacienda... the club that shook Britain』が、先日、BBC2で放送された。1982年から1997年まで運営されたマンチェスターのナイトクラブ。この場所が、当時の若者世代の意識を変えただけでなく、音楽におけるまったく新しい章を立ち上げたことは既に証明済みだが、このドキュメンタリーでは、ハシエンダの全盛期を支えた人々の生の声(このクラブの常連だった人々や、DJ、開設、運営に関わった人々のインタビュー)と、当時の貴重映像などを時系列に紹介している。実際のハシエンダを全く経験せずに、伝説だけを追った私にとっては、かなりわかりやすい内容だったので、インタビューをできるだけ忠実に訳し、おさらいついでに流れを要約してみた。

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1982年5月21日 ハシエンダのオープニング・ナイト

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マイク・ピッカリング(タレントブッカー、DJ):今だから言うけど、僕がブックしたわけじゃないんだ。バーナード(・マニング、マンチェスター出身のコメディアン)はロールスロイスで現れて、ステージに立つといくつかジョークを言った。誰も笑わなかったけど。で、その後、彼は、「この金は取っておけ、このクソヴェニューには必要になる」と言った(笑)。


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ジョン・ロブ(常連&音楽ジャーナリスト):ファクトリー・レコードはパンク・ロックから出てきた重要なレコード・レーベルのひとつだった。

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トニー・ウィルソン:(なぜハシエンダをオープンしようと思ったのですか?)それぞれの時代に大聖堂が必要だったように、ユースカルチャーの時代精神を表現する大聖堂がマンチェスターには必要だと感じたからです。

ジョン:ハシエンダとファクトリー・レコードの歴史はジョイ・デヴィジョンなしには語れない。彼らがこのレーベルと契約を結んだ最初のバンドだからだ。彼らは音楽の新しいスタイルを作り出した。それがハシエンダと言うアイデアの基盤となった。


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ハシエンダの起源:ジョイ・デヴィジョンの成功(1976-80)

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ピーター・フック:僕とバーナードは11歳の時からの親友だった。セックス・ピストルズがギグをやるというので、僕はバーナードに一緒に観にいこう、と誘った。観終わった後、僕はバーナードに言ったんだ。「バンドを組もう」と。

スティーブン・モリスをドラムに、イアン・カーティスをヴォーカルに迎え、ジョイ・デヴィジョンが結成された。


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スティーブン:当時、僕らはよく「君たちはマンチェスターの音がする」と言われていた。なんてバカみたいなこと言うんだって思った。場所の音がする、ってなんだよ?って。それが今になってようやく分かった。ファーストアルバム『Unknown Pleasures』(1979)、あれは確かにマンチェスターがどのような所か、という音がしていた。


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4人はトニー・ウィルソン、ロブ・グレトンに会い、ここからバンドの運命が変わる。当時人気TVスターだったトニーは、アナーキストで社会を転覆させたいと言う願望を抱いていた。ロブは音楽のセンスがよく、後にジョイ・デヴィジョン、ニュー・オーダーのマネージャーを務めた人物だ。


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トニーとロブは似て非なる者同士だった。

スティーブン:トニーが、レコード・レーベルを立ち上げたいと言ってきたんだ。これがファクトリー・レコードが始まりだ。

ジョン:ハシエンダはただのナイトクラブではなかった。その裏側にはラディカルなアイデアがあって、それは、ファクトリー・レコード、トニー・ウィルソン、そしてパンクの精神からくるものだった。そしてそれは世界を変えようとする試みだった。


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ピーター・サヴィル(アート・デザイナー、ファクトリー・レコード):ファクトリーは正式な会社ではなかったし、それは皆理解していた。やりたいことをやるところで、誰にも借りを作ることなく、だからと言って誰かが答えを出すことができる場所というわけでもなかった。

スティーブン:利益を出すような仕組みはなかった。違うことができる場所だった。


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ジョイ・デヴィジョンは1979年BBC2「Something Else」に出演、全国TVデビューを果たす。すべてが順調だった。

しかし、イアン・カーティスが自らの命を絶つ。

スティーブン:彼に何が起こっているのか、知る由もなかった。問題や鬱を持つことは弱さの象徴だとされていたし、それを語ることはタブーとされていた。自分の知っている人が、自殺するなんて...後悔は絶対になくならない...。

ピーターS:イアンの死後、何が起こったかというと、レコードが飛ぶように売れたんだ。ファクトリー・レコードに多額の金が舞い込んだ。問題は、この金をどうするか、だった。


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バーナード、ピーター、スティーブンの3人は、ニュー・オーダーとして再出発する。初めてのアメリカ・ツアーで、ニューヨークのナイトクラブに招待され、そこでアメリカン・クラブ・ライフを初体験する。

スティーブン:グレイトだったよ。イングランドには存在しない空間だった。元産業建築物だから、スペースはでかくてフロアがいくつもあった。

ピーターH:初めて経験する場所に畏敬の念しかなかった。イングランドにもこのような空間が必要だと思った。そこで、ファクトリーとバンド半々で共同オーナーシップで経営することにした。(リスクは考えていましたか?)いや、まったく頭になかった。ただ、やってみようということだった。


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ベン・ケリー(インテリア・デザイナー、ハシエンダ):当時僕はロイヤル・カレッジの学生で、インテリア・デザイナーとしての仕事を探していた。そこにハシエンダが来たんだ。それは大きな真っ白のキャンバスを与えられたも同然だった。レーベルはファクトリーと言う名前で、産業のイメージと連なる。そこで、トラテープ(黄色と黒のストライプ)模様のカラーコーディングを使って危険区域的なアイデアを用い、光を反射する短い垂直ポスト(ボラード)でダンスフロアを囲み、人が出入りできるようにした。

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「ハシエンダ」という言葉は、イヴァン・チェチェグロフの『新都市計画書』に出てくる言葉である。トニー・ウィルソンは、チェチェグロフが中心となって活動したシチュアシオニスト(状況主義者)に心酔していた。パリをベースにした、ラディカルな思想家たちで、彼らは、ある状況下で誰かが何をするかは、思考、感情、気質、過去の経験や行動によって決まるのではなく、むしろ状況そのものが決めると信じていた。

「新都市計画書」からの引用:"And you, forgotten, your memories ravaged by all the consternations of two hemispheres, stranded in the Red Cellars of Pali-Kao, without music and without geography, no longer setting out for the hacienda where the roots think of the child and where the wine is finished off with fables from an old almanac. That’s all over. You’ll never see the hacienda. It doesn’t exist.

The hacienda must be built."

訳:"それはもう終わったことだ。ハシエンダを見ることはないだろう。存在しないんだ "ハシエンダは建設されなければならない"

ベン:で、奴らはハシエンダを建設してしまったってわけだよ。

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ハシエンダが動き出す(1982-86)

ハシエンダは若い黒人でもウェルカムに感じられるところだった。ドレッドヘアのものもいれば、シューゲイザーもいる。

マイク:マンチェスターにアートと光を持ち込みたかった。ブックできるアーティストはすべてやった。そして僕は、ブレイク寸前のアーティストをブックするという役割を担うことになった。

1984年1月 The Tube Channel 4(イギリスの音楽番組、ジュールズ・ホランドやポーラ・イェイツらが司会を務めた)がハシエンダで収録される。この時のゲストはブレイク寸前のマドンナ。観客は100人いたかいないか。彼女にとってこのライブアクトが初イギリス公演だった。

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マイク:ステージに上がったはいいが、ダンスするだけ。あの頃のマンチェスターでは、マイミング(口パク)がかなり嫌われてて...。缶やらなにかが投げ込まれないように、気を配っていなければならなかった。

ジョン:僕はマドンナはハシエンダにとってパーフェクトなゲストだと思ったね。確かに違和感はあったけど。彼女は確実にニュー・ヨークのクラブシーンの一部だったし、ハシエンダを刺激したと思うよ。


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ノエル・ギャラガー:初めてハシエンダに行ったのは、学校を卒業した年だから、83年か。いいバンドがプレイするからチェックしなきゃと思った。着いて最初に思ったのは、看板小っせ!見つけるのが大変だったよ。

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ザ・スミスがハシエンダで演奏する。ステージと観客の間にギャップはなく、バンドが触れるくらいの距離で、彼らはパフォーマンスした。

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ノエル:グレイトだった。以前は、トップ・オブ・ザ・ポップスなんか観てても、マンチェスター出身のバンドなんて出ることはなかった。で、ニュー・オーダーやザ・スミスが出てきたんだけど、マンチェ訛りで歌って、自分の好きな服を着て、自分自身でいる。特別じゃなくても成功できるということをやってのけたんだ。

マイク:様々なジャンルのバンドをブックしたよ。カーティス・メイフィールドからファクトリー所属の若いバンド、カルチャークラブなんかもいた。オープンして最初の年に、ニュー・オーダーが初めてプレイした。僕たちは”すごくいいじゃないか”って思った。

1983年3月、BBC「トップ・オブ・ザ・ポップス」でニュー・オーダーがブルー・マンデーを披露する。

ジョン:1983年までに、ニュー・オーダーは、インディー音楽とダンス・カルチャーをパーフェクトに融合させせたシンセ音楽を作っていた。それは、ジョイ・デヴィジョンの雰囲気と音楽へのメランコリーさを持ち合わせながらも、それに合わせて踊ることができるというサウンドだった。

ノエル:ブルー・マンデーのオリジナル12インチを持っているんだけど、今聴いても、昨日レコーディングされたかのように聴こえる。そして未来の音もするんだ。

スティーブン:ロブはメガ!メガヒットだ!と言っていた。バーナードはこの曲(ブルー・マンデー)をライブでやるのは不可能だ、と何度も言っていた。

ジョン:ブルー・マンデーの成功でニュー・オーダーは金持ちになったに違いない、と思うかもしれない。しかし、答えはノーだ。いくつかの大きなギグ、つまりニュー・オーダーやザ・スミス、を除いては、ハシエンダはほぼガラガラ状態だった。


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アンディ・スピノザ(常連&作家):トニー・ウィルソンは、大げさにマンチェスターに大聖堂を建てるなんて言ってたけど、問題だったのは、彼が建てた大聖堂に興味を持ったのは、せいぜい小さな会衆だけだった。

ノエル:とにかく中は寒くってさ。だいたいデカすぎるんだよ。しかも誰もいないし。

スティーブン:当時は気付いていなかったんだけど、僕たちがやっていることは全てクラブの資金作りだったんだ。

ピーター:経済的に困難な状況にあった。ニュー・オーダーで稼いだ金はほぼハシエンダにつぎ込まれてたから、給料は少なかった。

スティーブン:ファクトリーでは、自分たちのレコードがどれくらい売れているのか全く把握していなかった。トニーに関して言えば、すべて記録されていたんだろう。だからこそ、金はすべてファクトリーにつぎ込まれたんだと思う。入って来たかと思ったらすぐに出て行く。大きな問題だった。

ピーターS:ダイレクター達に関して言えば、ある程度の財政的無責任さはあったと思う。彼らは、ビジネスとして成り立たせる代わりに、やりたいことだけをやっていたから。

ジョン:トニーとロブに関して言えば、クラブの運営自体がエキサイトメントだったから、この無用の長物化した狂った場所をキープする、それだけでやる気を奮い立たせていたんだ。出口はあるはずだ、何かが起こるはずだと。そして、そこに突然シカゴとデトロイトから新しい音楽の波がやってきた。誰もそのインパクトを予想していなかった。

アメリカでは70年代から既に存在していたクラブ・ミュージック、初期のハウス・ミュージックがシカゴで誕生。マンチェスターに到着すると、モス・サイド(マンチェスター)の黒人を中心にアシッドハウスが流行する。

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アンソニー・スティーヴンス(サウンドシステム・パイオニア):ハウス・ミュージックがマンチェスターに到着したことにより、モス・サイドはパーティ・タウンになった。

アンディ:86、87年くらいから、ハシエンダではギグの数を減らし、クラブナイトの開催するようになった。

マイク:最初の大成功だったクラブナイトは金曜夜の”ヌード・ナイト”だった。ある夜、若い黒人のキッズがドアをノックしたかと思うと、「マイク、これをプレイして」とレコードを渡された。Adonis の ”No Way Back”(Trax Records)だった。ブリリアントだと思ったね。気付いている人は少ないと思うんだけど、元々マンチェスター・カルチャーにはニュー・オーダーのおかげでエレクトリック・ミュージック・バックグラウンドがあったんだ。ベースラインとドラムビートがメインのハウスミュージックを聴いて「これはラディカルだ」と思った。これだったらハシエンダでうけるはずだと確信した。これだ。ここで何かが起こるぞ、と。

88~89年、エクスタシーとハウス・ミュージックが結びついて、レイブ・シーンが生まれた。

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1988年、ビック・ダンス・レヴォリューション

ダンスフロアで、テーブルの上で、椅子に乗って...2000人もの人々が躍った。グルーヴが繰り返されるたび、それを身体で感じ、ますます踊りたくなる。リズムとビートに引き寄せられるように、皆が踊り狂っていた。

アンソニー:踊れない白人がたくさんいたんだよ。でもそれはもうどうでもいいことだった。踊れなくてもいい、手や足を動かしていれば。

ノエル:これまで生きてきて踊ったことなんかなかった。なのに足が勝手に動くんだ。ちょっと待て、何が起こっているんだ?と思ったよ。

アンソニー:それは、liberation(開放)を意味するものだった。黒人が常に持っていた開放、それを白人たちが心に感じ、音楽に合わせて魂を自由にする。ハウス・ミュージックの到来以前には、白人が黒人の音楽に陶酔するなんてことはなかった。

ノエル:この二つ(エクスタシーと音楽)は切っても切り離せないものだった。ドラッグの為じゃなかったら、音楽は成り立たないし、音楽の為じゃなかったら、ドラッグはあり得なかった。

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ショーン・ライダー:Eシーンはハシエンダに居たすべての人になんらかの影響を与えた。フッキ―(ピーター・フック)が「ここでドラッグをやっている人間は少ない」と言っていたけど、それは間違いだった。ここに居た奴らの90%はやっていた。

月曜には給水トラックが到着して、恐ろしい量の水を売った。それだけ皆身体が水を欲していた。

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デイヴ・ハスラム(DJ、作家):80年代中頃、保守党サッチャー政権下の北イングランドは失業者があふれて戦時中のような状態だった。炭鉱夫のストライキ、若者の失業。人々はお互い反目しあっていた。でも、ハシエンダは違った。人々は協調し、それはパワフルで政治的で、そしてユートピアだった。ダンスフロアは、通常の生活では感じることのない前向きさと熱気に包まれていた。

ハシエンダは、毎日の生活から解放される唯一の場所だった。様々な意味で境界線を越えた場所だった。政治的な場所ではあるけれども、必ずしも政治的である必要はない。結束・愛・楽しみに満ち溢れていた。それは創造的な自由、柔軟性、変化を許容する民主的な空間であった。ハシエンダは、ダンスフロアに革命をもたらした。


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1989年、アシッドハウスが英国全体に行き渡る

1989年1月「The Hitman and Her」(イギリスのダンスミュージック・TVシリーズ、ITV)がハシエンダで収録される。「The Hitman and Her」はカルト的な深夜番組だった。

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ジョン:もしハシエンダが未来のクラブシーンを垣間見るようなものであれば、”The Hitman and Her” はある意味、過去を垣間見るもので、それは客がラガーを飲みながら、ハンドバッグ片手に踊るようなクラブを意味していた。つまりそれは、全く違う世界のクラブだったんだ。

マイク:ハシエンダから家に帰って、TVをつけると、”The Hitman and Her”が放送されている。これは完全にカルチャー・クラッシュだったね。

ピーターH:オーマイゴッド...。当時はいいアイデアだと思ったんだ。TVでハシエンダの良い宣伝になると思った。TVの製作チーム、特に司会者たちはかなりショックを受けたと思うよ。

アンディ:若者たちがそれぞれクラビングから家に戻ってTVをつけると、そこにはハシエンダの様子が映しだされている。新しい音楽、新しいファッション、見たこともない踊り方。そうすると、もうそれは秘密の場所ではなくなる。ハシエンダは全国的なムーブメントとなった。


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1989年8月、Black Boxがトップ・オブ・ザ・ポップスに出演する。

ジョン:それまでは、ハシエンダは英国ポップ・カルチャーのクラブを牽引する鍵となっていた。Black Boxの 「Ride On Time」は、ハシエンダでは大人気のダンスフロアミュージックだった。そしてその後、数週間でUKナンバー1となった。

ノエル:ザ・サン紙が”マンチェスター人との会話の仕方”みたいなのを特集していたのを覚えている。その後、マンチェスターに観光客が来始めた。


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デイヴ:客のファッションは、Tシャツにバギー・ジーンズ、そしてスニーカーだった。

ショーン:エクスタシーのせいで、すべてが変わった。午前2時に家に帰る奴なんていなかった。大勢の人間が高速道路のサービス・ステーションに向かうか、もしくはウェアハウスに侵入して、そこでパーティを続けるようになった。

誰もジャッジする人なんかいないし、ここでは常にオープンでいられた。労働者階級、中流階級、上流階級、すべての人たちがここでは混ざりあっていた。

ノエル:エレクトリック・ミュージックに興味を持ったことはなかったけど、ここでは音楽に関して常にオープンでいられた。


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1988年、ハッピー・マンデーズの「Wrote for Luck」がリリースされる。

ジョン:アシッドハウスの隆盛により、インディーバンドは置いてきぼりにされていた。でも、ギターバンドはどうすればいい?この現象を無視して活動を続けるバンドもいたけど、中にはそのスタイルをフュ―ジョン化する者も出てきた。ハッピー・マンデーズなんかはかなり早くからそれをやっていた。

ノエル:マンデーズは、ハシエンダで最も数多くプレイしたバンドだ。

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ショーン:たしか、5、6年くらい、シャワーを浴びる以外には家には戻らなかったな。ずーっとパーティしてた。ベズなんか、1989年から未だ家には帰ってねえんじゃないか?

ハッピー・マンデーズは常にハシエンダにいた。まるで経営チームの一員であるかのように。彼らはファクトリーと契約していたから。彼らはハシエンダで経験するダンスミュージックからリズムとエナジーとビートを感じ取ってそれをショーそしてパフォーマンスに置き換えて表現していた。

ショーン:ダンスミュージックから取り入れるんだ。ベースラインを強調して、ベースビートをな...分かんね、あまりこんな話はしねんだ。俺はファッキン、頭いい振りもできねえし。分かってるだろ?

ジョン:ハッピー・マンデーズは偶然の賜物ではなかった。バンドは常に何が起こっているかを見ていた。彼らはいつもダンスフロアにいたし、ダンスフロアを理解していた。

マンチェスターはポップカルチャーの中心だった。ハシエンダがあり、ハッピー・マンデーズがいて、そしてストーン・ローゼズがいた。

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1989年11月、ハッピー・マンデーズ、そしてストーン・ローゼズの両方がトップ・オブ・ザ・ポップスに同時出演し、マンチェスターシーンがメインストリームであることを証明した。

ノエル:すごいことなんだよ。両方がトップ・オブ・ザ・ポップスにいるなんて。イアンはふてくされた態度でマイクに向かって歌ってないし、ショーンに至っては歌詞も覚えてなくて、口パクしてた。

ショーン:誰も何もわかっちゃいなかった。TVスタッフはどれがバンドメンバーなのかも知らなかった。だから、マンデーズでイアンにドラムを叩かせて、俺がマニのベースを担当して、マニがリード・シンガーをやったらどうなる?って。いいアイデアだと思ったんだ。まあそうはならなかったけど。とは言え、そうなってたらクソ面白かっただろうね。

このTV出演は、人々がマンチェスターに興味を持ち始めるきっかけとなった。


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1989年12月、16歳の少女がハシエンダでエクスタシー1錠を摂取した後、薬物反応を起こし死亡。イギリスではエクスタシーによる最初の死亡事故として記録された。

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1990年 ハシエンダがトラブルに

マイク:僕らは皆Eをやっていた。1錠£25もするんだ。週末だけで億は稼げる。大金だよ。

ジョン:ギャングスターたちはハシエンダに目を付けた。この巨大なクラブだったら、違法売買で大金が稼げると。


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ピーターH:ハシエンダは急速にもはや安全とは言えない場所になってしまった。

マネージャー・チームは、セキュリティ―のCCTVビデオを警察に手渡す日々が続いた。

ノエル:ある夜、誰かがナイフで刺されて、クラブはすぐに閉鎖された。中に閉じ込められた者は出口で一人一人写真を撮られることになった。一体ここで何が起こっているんだ?と思った。

マイク:全員がクラブから締め出された。外に出ると、盾を持った警察隊が包囲していた。列になって横を通ると警察が盾を叩いて脅していた。この時点でこの仕事を辞める決心がついた。

ピーターH:暴力がハシエンダの一部になってしまった。本当に悲しいことだった。

1989年、違法レイヴが後を絶たず、警察と若者たちとの衝突が続いた。

ジョン:警察はより安全な場所を模索するよりも、棍棒を振り回して、クラブを閉鎖に追い込んだ。アシッドハウスは国民の敵となってしまった。パーティはある意味終わりを告げた。


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ポール・コンズ(”FLESH”ハシエンダ・ゲイ・ナイトの創立者):91年頃、ハシエンダは変動期にいた。僕はトニーと朝食をとっていて、彼にこう言ったんだ。「考えがある。もしゲイ・ナイトを設けるなら、ギャングスターは来なくなるし、もっと面白い人たちがくるよ。再びパーティを取り戻すことができる」。


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カス・マクダモット(常連、”FLESH”DJ):初めてハシエンダに来たときは、そのインパクトにびっくりした。ポーラ・イェイツやペットショップボーイズのような大物がいたかと思うと、裸の人達、S&M dykes、ドラッグ・クイーンがいた。それはとても美しい光景だった。というのも、それまではゲイクラブはクールな場所ではないとされていたから。しかも、ゲイだけではなく、ストレートの人たちもこのクラブに来るようになった。なので、入り口でチェックしないといけなくなった。

ポール:かなり挑発的なことをした。チケットに「当店はヘテロセクシャルと分かった時点で入店をお断りすることがあります」と書いたんだ。

カス:入店の際に入り口で自分の友人にキスができるか、という、”ゲイ加減”テストをしないといけなくなった。というのも、ゲイの客から、ストレートが多すぎて、中に入れないという苦情が出ていたから。

ポール:マンチェスターにとって、北のクィアという考えは画期的だったと思う。マンチェスターを再構築したと言ってもいいね。白人労働者階級の住む産業都市というイメージからゲイ・シティへ。そこで僕は、もうクラブ全体をゲイナイトにするべきだ、と言ったんだ。...結局それは上手くいかなかったんだけど...。ハシエンダは二度と昔のような場所に戻ることはなかった。そしてそれは、クラブがゆっくりと死んでいくことを意味していた。

ピーターH:トニーは額に手を当てて「どうしてこんなことになったんだ」と嘆いていたし、ロブは「シャット・アップ、バスタード!すべてはお前のせいだ」と言っていた(笑)。

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スティーブン:ある意味、イアン(・カーティス)が陥ってしまった状況に、ロブは陥っていた。そしてトニーも。出口が見つからないという状況にいた。ハシエンダは最初に作った損失を埋めることなんて絶対にできなかった。

ジョン:ハシエンダの偉大なところは、すべてはアイデアであって、金ではなかったということ。だが問題なのは、金のことを考えなかったら、最終的にはドツボにはまるということなんだ。

ピーターH:経済的ネズミ捕りに引っかかってしまって、もうそこから逃げだすことができない状況にいた。

アンディ:ロブは遂にもう無理だと悟り、1997年にクラブは閉鎖された。

ピーターH:(当時の帳簿を見ながら)1985年、僕らは£85,000を、そして84年には£110,000、つまり2年で£200,000を入れている。なぜなら、85年には£56,000の損失があり、84年には£44,000損失しているから。

スティーブン:(一体いくらの金額をニュー・オーダーはハシエンダにつぎ込んだのだのか、見当がつきますか?)あり得ないくらいの金額だよ。でも仕方ないよ、まあ僕たちはまだこうやって生きているし。(億単位ですか?)Oh! Yeah! (笑って)そりゃ2,30万ってことはないでしょ!ミリオンは確実だよ。

ピーターH:そして事実として、ハシエンダが原因でニュー・オーダーの中は険悪に、最悪になった。解散して15年経ったいまでもまだその状態が続いている。それだけ、僕たちの心の中に深い傷を落としたんだ。

スティーブン:悲しいよ。僕たちは友達だったから。たくさんのことを一緒に切り抜けたことはグレイトだったと思う。でも、もう友達じゃなくなった...。

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2022年7月 ピーター・フックによるプロデュースのもと、「ハシエンダ・クラシカル・ライブ」が開催された。

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ピーターH:レガシーは、常に人々であって、そしてその包括性にあった。何を着ていようと、誰であろうと、どんな肌の色であろうと、どこから来たのかであろうと、誰でもがお互いにここで会って、自由を感じることができた。

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2022年5月、40周年記念パーティが元ハシエンダがあった場所で開催された。

ノエル:ハシエンダの周りに会った音楽関係すべてが、マンチェスターのモダン・ヒストリーなんだ。

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(終わり)

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基本的には構成は時系列であるが、中には内容に多少の時差があるのと、やはりインタビューをもとにしたドキュメンタリーであったため、それとリンクする映像がかなり重要な役割を果たしており、ここでその映像なしに、語られたことだけを訳したものを読むと、いまいち状況が掴みにくいかもしれない。

しかしながら、私自身の感想を述べるならば、特に新しい情報があったわけではなかったが、こうして実際に関わった人々の口から当時の様子を聴くことができるのは貴重な体験だ感じた。

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ハシエンダを設計したインテリア―・デザイナーのベン・ケリーのインタビューでは、当時の内装の様子がヴァーチャルで見れるようになっており、クラブの中を歩いているような感覚を味わうことができる。


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かのマドンナの初パフォーマンスの映像は、クラブの客が腕を組んでフロア脇に突っ立って見ている様子を見るだけで痛々しい。

このドキュメンタリーでは、トニー・ウィルソンがシチュアシオニストに傾倒していたという事実から、このことが、ハシエンダの運営がいかに場当たり的だったかを証明している。しかしやはり胸を打つのは、フッキーとスティーヴンのインタビューだろう。バンドメイトの自死という悲しい出来事を経験した後、クラブへの資金提供がいかに彼らを解散に追い込んだか、ハシエンダがニュー・オーダーのメンバーの友情をいかに打ち砕いたかが語られる。フッキ―はうつむいて涙を隠しているようにも見えるし、スティーブンの声からは絶望と後悔が伝わってくる。そして、その辛さを語るときの表情に胸が締め付けられる。しかも、このドキュメンタリーにバーニーは一切登場しない。

BBCがドキュメンタリーを初公開したHOMEでの華やかなセレモニーでは、クラブの関係者や常連客など人々が集まり、このハシエンダのレガシーを祝い、40年経った今のこの文化的遺産について語り合ったとのことだ。

余談だが、ハシエンダが閉鎖された後、この建物はかなり長い間、空き家になっていたが、現在は、ウィットワース・ストリート・ウェストとアルビオン・ストリートの角にあるハシエンダというフラットになっている。

また、Haçienda Classicalは、来年夏、マンチェスターのCastlefield Bowlで8年ぶり7回目のライブを行うことが先日発表された。The Manchester Camerata とDJのグレーム・パークが率いるこのグループは、来年7月8日にマンチェスターのSounds Of The Cityフェスティバルの一環としてキャッスルフィールドで演奏する。当日は、スペシャル・ゲストとしてロジャー・サンチェス、トッド・テリー、そして、元ニュー・オーダーのピーター・フックも参加する予定とのこと。

https://m.youtube.com/watch?v=TWKQnodo0iY







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