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TVドラマにおける、国籍のステレオタイプ化はどこまで許されるのか?



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最初この記事のヘッドラインだけ読んで、「ステレオタイプ?『エミリー・イン・パリス(邦題:エミリー、パリへ行く)』は、元来そこにフォーカスしたドラマじゃん?何を今更?』と思ったのだが、その問題のエピソード4を観て、いやこれはまずい、行き過ぎだろ、と。

ネタバレあります。

英BBCが報じたところによると、ウクライナの文化大臣Oleksandr Tkachenko氏は、作中のウクライナ人女性ペトラのキャラクターを、"侮辱”とも言える誇張イメージである、との旨をNetflix側に異議を申し入れたという。

問題のペトラ(ウクライナ人女優のDaria Panchenkoが演じている)は、パリ在住の若いウクライナ女性で、エミリーのフランス語レッスンパートナーという設定。他の登場人物の華やかで個性的なアウトフィットと対照的に、服のセンスが無く、しかも国外追放を恐れている。エミリーとペトラは、仲良くなり、一緒にコーヒーを飲み、ショッピングに行くのだが、”タダ”が大好きなペトラは、そこで気に入った高級品を次々と身に着けては、そのまま店から出て行ってしまうのだ。

「『エミリー・イン・パリス』で描かれているウクライナ人女性のイメージは断じて受け入れられません。これは侮辱ともとれます」とTkachenko氏はテレグラフ紙に寄稿している。

パリに住むウクライナ人の一人も「ウクライナ人をあのように描くなんて、まさに低コストのトリックとしか言いようがないね。ある意味スキャンダルだし、恥ずべきことだよ」と述べる。

しかし、ウクライナ人映画プロデューサーのNatalka Yakymovych氏は「TVシリーズでの悪い奴はウクライナ人でなければ誰でもいいって訳?そりゃ、ペトラがロシア人だったら良かったのにって思うけど、思うように行かないのがTVだからね」と擁護する。

言ってみれば、もともと『エミリー・イン・パリス』は資本主義大国のアメリカ、シカゴから来た若い女性が、芸術の街、恋人の街パリで、文化的な違いを経験しながら成長していく、というのがメインのテーマだったし、この誇張し過ぎたステレオタイプを(嘘か誠かは別として)、時に同意しながら、時に憤慨しながら見るのが楽しいのであって、それは、シーズン1でも批判の対象になったりもしたのだけど、シーズン2では、パリに住んでいるにも関わらずフランス語を学ぼうとしないイギリス人アルフィーをパブで飲んでフットボール見ているだけのキャラクターにしているし、フランス内においてまで、パリ(都会)とノルマンディー(田舎)の違いをあからさまにしている場面もあるので、その部分においては、誇張があったとしても、まあフィクションだし、で済んだのかもしれない。しかし、あるナショナリティーを取り上げて、犯罪者(万引きは犯罪です)として描くのは、少しどころか、かなり度を越しているな、と。第一笑えなかったし。

この流れで行くと、もし日本人が登場することになったらどのようなステレオタイプが浮き彫りになるのだろうか?大人しくて従順で片付け上手?もしかして着物で登場するとか?もしそうなったとしても、笑える範囲での誇張であることを切望する。

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