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血溜まりと記念日

さっきまで目の前には背中があったのに、今は固く握りしめられた拳が眼前にある。
激情のまま強く握られたそれは突然に私の視界を覆ったのだ。

人間は危機的状況に陥った時、時間の感覚を歪ませることができる。
所謂時が止まったかのように感じるあれやスローモーションに感じるそれだ。おそらくそれを今体験しているのだろう。

とりあえず覚えているだけの状況を説明する。
まず私が座っている。そして私の視線の先には背中がある。多分私はその背中に対して何らかのアクションをした。覚えていないけれど、その後の流れを考えると私が何かしたんだと思う。
すると、それまで微動だにしなかった背中が突然に動き出し『大きく振りかぶってー』と野球中継の如く実況が脳内に響き渡る。と同時にピタリ。時が止まる。あるいはものすごくスローで時が進んでいる。そして今だ。視界のほとんどが岩みたいな拳で占領されている。なんじゃこりゃ。周りがよく見えない。
ああこれは殴られるな。脳は現状をピンチとして捉えているはずだろうが思考はなんとも呑気なものだ。うわこれは顔面ど真ん中だわとか、食らったら痛いだろうなとか、スローモーションなのを良いことに様々な考えが頭を駆け巡る。そういえば今日は何の日だっけ。

状況は依然として変わらず、握り拳が視界を支配している。
そろそろ考えることもなくなるという頃に満を持してその瞬間はやってくるわけだ。

ドカーン!
気持ち的にはこんな音。もしくは、バゴーン。
実際には「ごっ」とか「ごりゅ」とか、そんな地味な音だったとは思うけど。いやむしろ派手でないからこそ、鈍い音だからこそ、じわりと痛さを引き立てるのだろうか。

しっかし痛くねえんだなこれが。
勿論それは綺麗にクリーンヒットしたわけで。それはもう感覚としては特大ホームランなわけで。バッターさぞかし快感。かたやボール役・私。アホ。
脳内「え?今、何が起こった?え?」
先ほどまであれほど脳内シュミレーションをしたにも関わらずいざ行われるとまるで状況を把握できない。無能だ。
脳内「え、なぐ、殴られた?え、顔を?」
そう、顔面ワンパンクリーンヒット。顔の中心より少し下にずらしたところにグーパン。いやぁ綺麗に食らいましたね。

中々状況を信じようとしない(信じられない?)自分の脳内に笑けてきたがこんな状況で脳内と会話している私も大概だ。気持ちわる。現実を見よう。そう、目の前を……って、わぁ、顔がある。いや後ろを向いたまま人は殴れないからこっちを見ているのは当然なんだけれども。ってか顔めっちゃ怖!人間が人間の顔にグーパンチを入れる時はこんな顔をするのか。怖!なんかアレに似てる、浅草寺に行った時に見かけた銅像。
多分、人の顔面を殴る時って相当追い詰められている時。顔のパーツ全てが吊り上がっていて呼吸するのも精一杯のようだ。「フゥーッ、フゥーッ」って猫の威嚇かよってくらいの呼吸。肩が大きく上下して、体は細かく震えている。なんかしんどそうだな。

ここまでずっと時間の感覚が歪んでいる状態なので、のんびり人間観察をしているようだが実際のところ時間は全然進んでいないと思う。何分か、いや一分経っているかも怪しいくらいだ。

仁王像みたいな顔をしていた人間、何回か肩で息をしたところで次第に表情が変わっていた。あれほど強張っていた体がどんどんと脱力していくのが私から見ても分かった。
何となく考えていることが分かる。自分が何をしたのか理解し始めていて、罪悪感と後悔に襲われている。
私もこんな綺麗に顔を殴られたことはなかったが、向こうも人の顔を殴るのなんて初めてだったんだろう。遅れて来る握り拳のヒリヒリ感が、余計に罪の意識を際立たせるに違いない。

脱力しきった体から声を振り絞るのは多分想像以上に大変。ごめん、と聞こえた気がした。一瞬何が?と思ったがああそういえば私殴られたんだっけと改めて認識する。
真っ赤な顔から真っ青な顔に変わっていて、人間の肌色はこうも変わるものかと思いながら私は鼻水を拭った。ぬるりとした感覚に違和感を覚えたのでふと自分の手のひらを見るとべっとりと血が付いていた。
もう一度真っ青な顔色を見ようと顔を上げたら今度は今にも泣き出しそうな顔をしていた。

ん?

え?


血?


てのひら。
べっとり。


あ、
あああああ。


痛い!
え?顔が痛い!!
血が、どうして?たくさんいっぱい出てる。痛い。嫌!痛いのはきらいなのに!
いたい!ああ、いたい!
どうしてこんな?え?痛いよ、顔が焼けるように熱い。鼻は感覚がなくなっちゃった。
痛いよ、顔が燃えている。
鼻おかしくなってないかな?鼻曲がってないかな?!
あああ痛い!顔が焼けてる!鼻大丈夫!?
わあああああ血がたくさん出てる!!
痛い!痛い!痛い!



・・・・何時間喚いていただろうか。
一度パニックに陥ると止まらなくなるらしい。私にとってパニックもまた時間を歪ませる材料の一つになるようで、この場合は時間の流れが急激に加速するみたいだ。落ち着くには数時間単位の時間が必要となる時もある。


鼻血ってすごい出る。
頭が回らないからか、こんなしょうもないことを考えていた。
殴られて鼻血に気がつきパニックになり喚きながら横に倒れた記憶がある。それからは喚くばかりで特に移動はしていないと思う。
横たわっているマットが血まみれになっていて悲しい気持ちになった。マット以外にも色々なところに血が飛んでいて、とにかく悲しかった。

それはもう大パニックで騒ぎまくったので今はとにかく無気力状態だ。殴った本人に介抱されている。
ポリエチレン袋に氷と水を入れた即席氷嚢が鼻周りを中心に覆い被さっている。氷水が溶けてぬるくなってきたのでそろそろ交換されるだろう。
チラリと横を見ると真っ赤なバスタオルがある。そういえば血に気がついてパニックになった私がティッシュ!と叫んで、バスタオルを渡された気がする。今思えばそれは正しい選択だった。ティッシュだったら何箱消費していただろう。これがすべて私の血だと思うとおぞましい。人間は中々多量出血で死なない。多分。手元にあるバスタオルは二枚目だ。
耳を澄ますとお風呂場からジャーッと音が聞こえる。おそらく私が血で汚した色々なものを洗ってくれているのだろう。もしかしたら、お前が殴った結果なんだから当たり前の行動だと憤るのが普通なのかもしれないが、いかんせん無気力状態なのでどうでもいい。憤るエネルギーはない。

だいぶ自我が戻ってきた私は、少し思い出してみた。
殴られた直後までは普通だった。というか落ち着きすぎていた。殴られた感覚はあったけれど本当に殴られた瞬間の痛みはなかった。殴られたなぁと思った。脳内で分泌される物質ってすごい。
トリガーは血だ。
手にべっとりとついた血を見て訳がわからなくなった。わああと叫んだ声と共に心の中で何かが崩壊するように感じた。そして本来であれば殴られた瞬間に訪れるであろう痛みをはじめとした諸々が一気に押し寄せてきた。一度に押し寄せるものだから、耐えきれなかった。パニックに陥った。

しかしとにかく痛かった。鼻は危険だ。強打するべきではない。そしてエグいぐらいに血が噴き出る。
痛みの次に襲ってくるのは焼けるような熱さ。殴られた周りがライターで炙られてるのかっていうくらいの熱さで。痛い!熱い!血だ!みたいな。そんなもんだからもはや顔の感覚が無くなってくる。
すると面白いことに、鼻がひん曲がったように感じるのだ。実際は曲がっていない。しかしパニック状態なので、曲がっていると騒いでは鏡を見て曲がっていない!何故!?を繰り返していた。
とにかくパニックが凄まじかった。ぎゃあと叫び声。喋る言葉は痛い、熱い、血が、鼻が。これをジタバタしながら永遠と喚いている。近所迷惑だ。


ああもう何もかもどうでもいいな。
気がつけば空は橙色になっていてこれから濃紺に近づいていくのだろう。
今日は大切な日だった。
何よりも大事な日だった。
人生で一度きりの日だった。
だから大事な予定だって断ったし好きな人に会う予定だって蹴った。その結果がこれだ。こんなことならせめて好きな人を一目見れば良かった。たらればの話をしてもしょうがない。だけどそう思わずにはいられなかった。横たわって動けないような無気力さがより悔しさを強めた。
私の記念日は血塗られたものとなった。






こんなことが現実に起こりませんように。
自分で書いておいてアレだが気分が悪くなった。吐き気がした。

今日は特別な日なので苺のショートケーキを買って食べた。
ホイップクリームが絶妙な甘さでてっぺんに君臨する酸味のある苺と合っていた。スポンジの中にはクリームだけでなく苺ジャムも混ざっていたのだけど、これがまた甘くて美味しかった。
苺ジャムが気に入ってしまってジャムだけを口に含んだのだけどぬるりとした口触りがして何故か嫌悪感を抱いてしまった。おや、と思いケーキに目を向けると苺ジャムの艶やかさが鮮血に見えて仕方がなかった。思わず匂いを嗅いだ。鉄っぽい匂いがした…ような気がする。思い込みだと思いたい。
最後の一口を食べた。やっぱりケーキは甘くて美味しかったので安心。


読んでくださりありがとうございます!! ちなみにサポートは私の幸せに直接つながります(訳:おいしいもの食べます)