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はつなつ物語


 ミントキャンディーを口に含んだ時のような風が吹く、初夏の朝でした。     マリコさんの家のベランダに、初雪のように真っ白なバラが咲きました。
 マリコさんのおうちはマンションの七階です。マリコさんはこの白バラを育てていて、今年も楽しみにしていたのです。
「よく咲いたねぇ」
 マリコさんはまぶしい朝日を浴びながら、嬉しそうに顔をほころばせました。
 と、そこへ黄色と黒の美しい模様をした、アゲハ蝶がふわりふわりと七階のベランダまで飛んでくるではありませんか。
 こんなことは初めてです。マリコさんはたいそう驚いて、水差しを落っことしそうになりました。
 アゲハ蝶はそんなことはまるで気にせず、バラの周りを優雅にひらひらと舞っています。
 白バラも嬉しそうに、吹く風にかすかに葉や花びらを揺らしています。
(まるでアゲハ蝶と白バラがおしゃべりしているみたい)
 マリコさんは楽しげな気持ちになりました。
 マリコさんはこのところついてなかったのです。
 仕事でミスはするし、友達に愚痴を言おうと思ったら、その友達からドタキャンされるし、挙げ句の果てに付き合っていた恋人のコウジさんとも喧嘩してしまいました。
「何か良いことあるかも」
 マリコさんはにっこり笑って、ベランダを後にして会社に行く準備を始めました。

 
 マリコさんがいなくなったベランダでは、アゲハ蝶と白バラが本当に会話していました。
「アゲハ蝶さん、あなたよくここまで飛んで来たわねぇ」
「あら、意外と珍しくないのよ。風に乗ってすーいすいっとね」
「あなたはいろんなところに行けていいわねぇ。きっとたくさんのものを見て来たんでしょう」
「まぁね。でも私は少ししか生きられないの。毎年決まった時期に咲くあなたの方が、うらやましいわ」
「そうね。私は毎年マリコさんに会えるのを楽しみにしているの」
「マリコさんっていうのね。優しそうな人ね」
「そうなんだけど、今年のマリコさんはちょっと痩せたみたい。元気がないような気がするのよね」
「そう」
「私たちと違って人間は複雑だから大変よね」
「あら、白バラさんは優しいのね。私なんて何度人間の子どもに、つかまえられそうになって、怖い思いをしたか。人間なんて好きになれないわ」
 そう言うとアゲハ蝶はひらひらっとまた舞って、澄んだ空へと飛び立ちました。
 白バラはため息をついて寂しげにつぶやきました。
「気まぐれなアゲハ蝶さん。人間はとても哀しいのに」
 その夜家に帰ったマリコさんはなんだか元気そうです。
 流行りの歌を鼻歌で歌いながら、ベランダに出てきました。
「今日はとても良いことがあったのよ」
 そうです、今日はマリコさんはいいことだらけの一日でした。
 まず、電車の中でかわいい赤ちゃんが、マリコさんの顔を見ると泣き止みました。それから、いつもむすっとしている上司が、笑顔であいさつしてくれました。そして、きわめつけは恋人のコウジさんから連絡が来たのです。
「あなたがきれいに咲いてくれたからかしらね」
 マリコさんはそっと白バラに触れると、そうつぶやきました。
 白バラはもう嬉しくて、ほっぺたがピンクに染まって紅バラになるかと思いました。
 マリコさんはそれからしばらく白バラを見つめていましたが
「明日もがんばろ」
 とひと言いうと、ベランダを出て部屋に入りました。
 白バラは少し冷たい五月の夜風に吹かれながら
(良かったなぁ)
 と思いました。
 

 数日後、また白バラの元へアゲハ蝶がふわりふわりとやって来ました。
「マリコさん、だいぶ元気になったのよ」
「あらそう。人間は単純ね」
「アゲハ蝶さんったら、ホントにもう」
「白バラさん、あなたのほうこそ心配よ。元気ないみたいじゃない」
「そうね。この頃おひさまが眩しすぎるように感じるの。今年の命が尽きかけているみたい」
「まぁ、花の命は短いっていうけど、本当ね」
「うん。これでお会いするのは最後の気がするわ」
「そんなこと言わないで。また来ますからね。待っててちょうだい」
 アゲハ蝶はそう言うと、はねをひるがえして飛んでゆきました。

 
 その日の夜、マリコさんの部屋に恋人のコウジさんが来ました。
 二人はベランダに出ました。コウジさんは少し元気のない白バラを見て言いました。
「バラはトゲがあって、かわいげがないから嫌いだな」
「そうかな。毎年咲いてくれてかわいいけど」
「少し枯れかけてるし。捨てちゃえば」
「嫌よ。私のいやしなんだから」
「ふーん」
 二人の会話を聞きながら、白バラは哀しくなりました。今すぐ大雨が降って、人間みたいに涙が流せればと思うほどでした。
「マリコはぶりっ子だな」
「そうかもしれないけど」
「そこがいいとこでもあるんだけどな。ま、いいや。中に入ろうぜ」
 コウジさんはマリコさんの手を取って部屋に入りました。
 マリコさんは名残り惜しそうに白バラを見ながら、コウジさんについていきました。
 数日後、もうずいぶん色の変わった白バラの元へ、こちらも息のたえだえなアゲハ蝶がやって来ました。
「白バラさん!」
「アゲハ蝶さん!」
 白バラとアゲハ蝶は再会を喜び合いました。
「あなた顔色が悪いけど、大丈夫?」
「あら、あなただって、はねがよれよれじゃない」
 白バラとアゲハ蝶は寂しく笑い合いました。
「マリコさんはどうしてる?」
「それが、恋人と別れたみたいで泣いてばかりいるの」
「あらぁ。大変じゃない」
「そうなの。とても心配」
「でも、人間は意外と図太いから大丈夫なんじゃない」
「そうかしら。人間はもろいものだと思うけど」
 その時ベランダの窓が開いて、マリコさんが顔を出しました。
 マリコさんはまた以前より痩せて青白い顔をしていました。
「あなたたちは仲が良くていいな」
 マリコさんは白バラとアゲハ蝶の視線の位置にしゃがむと、ツーっと涙を流しました。そしてその一滴が白バラの花びらに落ちました。枯れかけた白バラにとっては、それはまるで命の水のよう。白バラは温かくて少ししょっぱいその涙をとても嬉しく思いました。
 アゲハ蝶は息もたえだえだったので、白バラの葉にとまったりしていましたが、ふと思いつきマリコさんの髪にとまりました。
 マリコさんはそれを払いもせず、泣きながらにっこりとしました。ベランダの窓ガラスに映ったその姿は、マリコさんの柔らかな髪に、きれいな髪飾りをとめているようで、とても素敵だったからです。
(マリコさん)
(私たちマリコさんのこと、大好きだよ)
 そして白バラは枯れかけた花びらを一枚マリコさんの細い手に落としました。
 アゲハ蝶は最期の力を振りしぼって、マリコさんの周りをひらひらと舞いました。
 白バラとアゲハ蝶は精一杯最期の命を燃やして、マリコさんを励まそうとしました。
 マリコさんはもう泣いていませんでした。自分の周りの小さなものたちが優しくて、世界に祝福されているような気がしたからです。
「もう少しだけ、がんばってみようかな」
 マリコさんはそう独り言を言うと、立ち上がってベランダから部屋に戻りました。
「白バラさん」
「アゲハ蝶さん」
 マリコさんのいなくなったベランダで、白バラとアゲハ蝶は互いの名前を呼び合いました。
「そろそろ時が来たようね」
「そうね」
「また、会いましょう! アゲハ蝶さん」
「きっと、また会えるわ。白バラさん!」
 白バラの花びらは散り、アゲハ蝶はその花びらの上で息をたえました。
 優しい初夏の光が、二つのちいさな死を包みました。

 
 一年後、去年と変わらぬ風の吹く、初夏の朝でした。
 マリコさんのベランダには今年も、白バラが咲きました。そして、少しふっくらとして、元気そうなマリコさんの姿もありました。
「今年も咲いてくれて、ありがとう」
 マリコさんが笑顔で言うと、白バラも風に揺れながら、大きな花びらをうなずくように、こくんとしました。
 その時、ベランダからひらひらと上がってくるものの姿がありました。
 アゲハ蝶でした。
「あら、今年もやってくるなんて!」
 マリコさんは今年も水差しを落っことしそうになりました。
 アゲハ蝶は、白バラの周りをひらひらと舞っています。
「生まれ変わりかもしれないわね」
 マリコさんはつぶやきました。
「やっぱり、また会えたわね。アゲハ蝶さん」
「会えると思っていたわ。白バラさん」
 そんな会話が聞こえた気がして、マリコさんはにっこりしました。
 明るい初夏の朝の出来事でした

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