『フリーネ』以前のレズビアン&バイセクシュアル女性のメディアについて
レズビアン&バイセクシュアルのための雑誌(←発行当時のキャッチコピー)『アニース』(テラ出版)2001年発行の「コミュニティの歴史」特集は、年表とインタビューで1971年から2001年までを振り返る、というもの。なぜ71年で区切ったのか覚えていないのですが、年表の最初の1行は次の出来事で始まっています。
1971年 日本初のレズビアン・サークル「若草の会」活動開始(~約15年間)
年表は「♀♀コミュニティの出来事」と「海外・周辺・出版物など」に分かれていて、「ドルショック」「なめネコブーム」などの文字も。そのなかから、メディアに関する主な項目だけをピックアップしてみます(※は「海外~」として掲載していた情報、※※は当時の年表にはない項目を追加)。
※71年 ゲイ雑誌『薔薇族』(第二書房)創刊
76年 レズビアン・フェミニストのミニコミ「すばらしい女たち」発行
※※アニメ雑誌『月刊OUT』(みのり書房)創刊(~95年)、編集長の南原四郎氏が後に『アラン』『月光』を発行
78年 ミニコミ「ザ・ダイク」「ひかりぐるま」発行
※78年 『JUNE』創刊
82年 若草の会がレズビアン雑誌「EVE&EVE」を自費出版(~2号)
87年 「れ組スタジオ・東京」開設、「れ組通信」創刊。「れ組スタジオ・静岡」発足、「アミー」発行。別冊宝島『女を愛する女たちの物語』出版
88年 季刊文芸誌「瓢駒ライフ-新しい生の様式を求めて-」創刊
92年 別冊宝島『ゲイの贈り物』出版。ミニコミ「LABRYS」創刊。最盛期の購読者数は1700人以上(~95年)。創作系ミニコミ『××(くすくす)』創刊(~97年、17冊発行)
※93年 新宿にレズビアンとゲイのための情報センター「hands on hands」オープン
94年 虎井まさ衛が主催するミニコミ「FTMジャパン」創刊
96年 ミニコミ『LABRYS DASH』創刊(~96年)
プライドハウス東京の歴史動画を見たときにも思ったのですが、ざっくり分析すると、ゲイ男性の場合はゲイ雑誌、ゲイバーが盛んだったのに対して、女性はサークルやミニコミ(サークルが会報を発行しているケースも多かった)、イベント(パーティー、常設ではないディスコ、ウィークエンドと呼ばれる合宿形式の会合など)が中心だったのではないでしょうか。単純に、男性(ヘテロ含む)向けのHな雑誌や風俗店、バーの数と、女性(ヘテロ含む)向けのそれらの数を比較して考えてみれば、それは決して女性(レズビアン&バイセクシュアル)が男性(ゲイメン)と比べて遅れているということではなく、ニーズや習性の違いだということがわかるはずです。
年表のなかで、わたし自身が実際に知っているのは『月刊OUT』『アラン』『月光』、『JUNE』、あと、高校の友人たちが回し読みしていたゲイ雑誌『アドン』。『リボンの騎士』や『ベルサイユのばら』(72年)、『風と木の詩』(76年)などの影響も受けて育ったので、ヘテロセクシュアルではないあり方に抵抗はなく、問題なのは自分が男性も女性も好きになることではなく、その相手が自分の気持ちに応えてくれないということのほうでした。それでも、書店で 87年出版の別冊宝島『女を愛する女たちの物語』を見つけたときは、かなりドキドキしてレジに持っていったことを覚えています。その充実した内容は画期的で大きな衝撃を受けましたが、自分の実感として共感できるかというと少し違いました。
その後、クラブやイベントで同世代かつ同業(出版関係)の友人が出来て、自分たちのメディアや雑誌が欲しいね、という話になったときも、合い言葉のように「今までとは違うものを」と言い合いました。もちろん、先輩たちが作ってくれたものはとても貴重で、それを否定するつもりはないけれど、自分たちとは違う存在、という感覚がぬぐえなくて(当時、それは世代的な違いだと思っていたのですが、年齢的な感覚の違いもあったのかもしれません。「山に住むレズビアン」とか、えええ?って思いながらミニスカート履いてクラブで飲んでましたが、今、山に住みたいですもん!)
その後、わたしは別冊宝島『ゲイの贈り物』に参加。おそらく伏見憲明さんから、せっかくだからミニコミ(サークル)の告知を掲載しては?と提案があって、掛札悠子さんがミニコミ「LABRYS」を立ち上げました。時系列が少々あやしいですが、掛札さんから電話がかかってきて、「ミニコミ作るから手伝ってくれませんか?」または「いっしょにミニコミを作りましょう」と言われたのですが、「ミニコミって何ですか? え、自分で印刷するんですか? 自費で!? 何で?」と大混乱(笑)。(「LABRYS」についてはまた改めて書きたいと思います。ここでは商業誌の話を)。
ほぼ同時期だと思うのですが、1993年に新宿御苑あたりにレズビアンとゲイのための情報センター「hands on hands」がオープンしました。主催(主催のひとり? 検索してみましたが、情報が見当たりませんでした。当時のことって、ほんとネットでは調べきれないですね)は南定四郎さん。さまざまなワークショップが行われていて、そのなかに「♀♀商業誌を作ろう」という内容のものがありました。正確な名称は記憶になく(中心となっていた方のお名前は覚えていますが、近況がわからないので、明記するのは避けます。そのグループは「オフィスかえる」と呼ばれていた記憶があります)、構想を語り合う以外にどんなことをしていたのかも覚えていません。ただ、出版や編集に携わっている(または志している)当事者たちが集まり、ヒントや刺激を得るとともに、知り合いも増えました。
また、そのうちのひとりだった瑞月かずこさんが「シエラザート」という“女を愛する女たちの芸術表現グループ”の活動を始め、別冊宝島『ゲイの贈り物』『ゲイのおもちゃ箱』を作る際に大活躍してくれました。
いよいよ、商業雑誌『フリーネ』の話が来たとき、「オフィスかえる」にも協力を仰いだのですが、断られてしまったため、それらの流れと『フリーネ』は直接は重なっていません。正確なやりとりは覚えていませんが、方向性の違いだったのか、出版社のカラーの問題だったのか、“自分たちは自分たちの雑誌を作りたいから今まで培ってきたものを他社に提供することはできない“というようなことを言われた記憶があります。それに、わたしが『フリーネ』に加わったとき、すでにマンガなどの発注が進んでいたため、内容的にもボリューム的にもそんなに多くのものは盛り込めない事情がありました。ただ、そのような流れもあったなかで、『フリーネ』が生まれ、わたしが関わるようになった、ということは記録しておきたいと思います。
ここから先は『フリーネ』製作の話になるので、ひとまずここまで。
最後に、当時の状況、ミニコミと商業誌の違いについて、少しだけ。
1975年 コミックマーケット(コミケ)初回開催
1980年代後半~1990年代 パソコン通信全盛
1995年 Windows95、インターネットの普及
当時、すでにミニコミや同人誌はありました。ブログやSNSがなかった時代、むしろミニコミは今より盛んだったかもしれません。そんななか、わたし(たち)が「商業誌」にこだわったのは、情報を求めている人に届けるひとつの確実な手段だったからです。今なら、スマホで検索すれば、誰にも知られることなく、いくらでも情報が得られます。書籍や別冊宝島のようなムック本は長く読み継がれる価値がありますが、内容が更新されないため、情報伝達には向きません。ミニコミなどは、すでにその存在を知っていてアクセスできる人にしか届きません。パソコン通信は一部では盛り上がっていましたが、一般的ではなく、特に女性ユーザーは多くはなかったように思います(わたしは仕事柄、ワープロを持っていたので、モデム外付けで利用していましたが、自宅にワープロやパソコンを持っている人は少なかったはず)。たまたま書店で見かけた人が、最新の情報に接して、世界がパッと広がっていく--。それが『フリーネ』と90年代の『アニース』でやりたかったことでした。もうひとつ、意識していたのは、今よりずっとタブーでエロで暗いイメージだった女性同士の恋愛のポジティヴな面を表現して伝えていくこと。今、当時の読者や関係者たち、そしてそんな雑誌があったことなどまったく知らない若い世代が、それぞれに活躍なさっている姿を見ると、本当に感慨深いです。
※注:上記の引用はわたし自身の著作物から、出典を明記した上で、転載したものです。無断転載はおやめくださるよう、念のため、お願いしておきます。
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