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第1章

「どうして、こんなところに醤油が? またおばあちゃんね」朝一番に洗濯機を回そうと扉を開けた川浦輝美子は、洗濯機の中に丁寧に立てられた醤油のボトルを手にとって深いため息をついた。この間は、食器乾燥機の中にお漬物のお皿が綺麗にラップをかけられて置かれていた。どうやら冷蔵庫と間違えたらしい。数えで89歳になる姑のここ最近の奇行に輝美子はイライラを募らせていた。確実に認知症が進んでいる。昔から思い通りにならない姑とぶつかってきたが、認知症が進んでからはさらに思い通りにならない。自分のペースを乱されて日々のイライラは募るばかりだった。夫とは最近姑の介護のことで何度も意見がぶつかり険悪な空気になっていた。家族は皆、ずっと一緒にいないからわからないのだ。姑の本当の性格を。みんな嫁姑の問題だと取り合ってくれないが、これは姑の性格の問題だと輝美子は思っていた。 
 結婚して38年。夫の茂一は真面目で家族の大黒柱として定年まで働き、一家を支えるだけでなく親や弟の借金まで肩代わりして払い終え、今は弟の面倒まで見ている責任感の強い長男だ。今もまだ朝から晩まで働き続けている。輝美子も借金を返すたびに火の車になる家計を支えるため、ずっと外で働き家事と仕事を両立してきた。しかしそれも娘たちが嫁ぎひと段落ついた一〇年ほど前までで卒業し、今はフルタイムの仕事を辞めてパートタイムでの事務職に切り替え、家事と趣味と民生委員のお役目に励んでいた。あと三年で六五歳。六五歳になればずっとかけていた年金がおりて今よりも少し楽をして生きられる・・・。輝美子の楽しみにしている老後は、もうすぐそこまできていた。 
 輝美子は朝一番で確保した醤油のボトルを持って台所へ行き食卓の上にボトルを置くと急いで朝食を作り始めた。姑の得子はすでに起きて、リビングのソファに座りテレビを見ている。今日は、デイケアの日だから熱心にカバンの中身をチェックしていた。7時を過ぎると茂一が起きてきて身支度を始め、そのあとすぐに、次女の奈津子が起きてきて狭い洗面所を父親と譲り合いながら身支度を始め、朝食がテーブルに揃うのを見計らってみんなが食卓に集まった。輝美子が、朝一番の奇妙な出来事を話すと茂一も奈津子も笑い転げたが、輝美子は笑う気になれなかった。得子は自分のこととは思いもせず、「うまい、うまい」と黙々とご飯を頬張っている。このまま認知症が進めば、足腰が強く歩行に問題がない得子は一人で外に出て迷子になりかねない。今まで以上に目が離せなくなるのだから、自分の負担が増えるに違いないと輝美子は憂鬱に思っていたのだった。 
 次女の奈津子は、離婚して帰ってきてから家にいるが仕事の帰りが遅く、彼氏とのデートもあるため姑の世話を任せるわけにもいかないから、必然的に姑のデイケアの行きと帰りの時間に合わせて、輝美子が自分の用事を済ませなければならなかった。長女の津田真愛美は、嫁いでからちっとも実家に顔を見せずほとんど帰ってくることがない。車で30分もかからないところに住んでいるというのに、二ヶ月も三ヶ月も音沙汰がないということもよくあった。だから、連絡をするのはいつも輝美子からでただ用件を伝えるだけの寂しい電話だった。 
 そんな日々の中で輝美子はふと寂しくなる時があった。寂しいというより虚しくなるのだ。誰も自分のことなど愛してくれていないのではないか。誰も自分のことなど気にかけてくれていないのではないか。誰も自分のことなどわかってくれないのではないか、どうせ自分なんていなくてもみんな気にしないのだろう・・・と。子どもが巣立った親によくある虚しさなのだろうか? 母親という役目が終わった時、自由になり好きなことをする時間ができたにも関わらず、我が子が相手にしてくれないのはなんとも寂しく虚しいものだ・・・と輝美子は誰もいない昼間のリビングで一人ため息をつくのだった。 
 その寂しさを悟られないよう輝美子は、やりがいを見つけようと民生委員になる話が来た時にすぐに承諾した。誰かの役に立つというのは、自分の存在を認めてもらっているような気がして心地よいに違いないと思ったのだ。実際に民生委員の仕事はやりがいがって楽しかった。誰かに喜んでもらうことで輝美子はさみしさを癒していった。

 そんな平凡な毎日を過ごしていたある夜、輝美子は奇妙な夢を見た。亡くなった二人の叔母が夢の中に揃って出てきて何かを懸命に伝えようと叫んでいるのだ。一人の叔母は、命日前になると必ず夢に出てくるのでそんなに不思議ではなかったが、もう一人の叔母は亡くなってから初めて夢の中に現れた。しかも、二人一緒に現れてとにかく何かを訴えているのだ。輝美子と叔母たちの間を遮るのは大きな大きな川だった。流石に輝美子もその川を渡って向こう岸へ行くことがどういうことなのか、夢の中であっても理解した。絶対に渡れない。渡ってはいけない。きっとその川は三途の川だ。輝美子は叔母たちの異常なまでに叫ぶ姿にだんだん不安になってきて早く夢から醒めたいと思った。無理やり目を開けようとしたその時、どこからともなくはっきりと声が聞こえたのだ。「もうすぐお迎えが来るから、準備をするように」「え??」輝美子は耳を疑った。「もうすぐ迎えが来る?それって、死ぬってこと?!」輝美子は恐怖で体が凍りついた。必死に目を覚まそうともがく輝美子が全身汗でビッショリになってうなされていたので隣で寝ていた茂一は心配して輝美子の体を揺すって起こしてやった。「おい、大丈夫か?」「うん、大丈夫。ちょっと悪い夢を見ただけ。ありがとう」茂一のおかげで目を覚ました輝美子はそういうとカラカラの喉を潤すために、いつもより早くベッドを出てリビングへと降りていった。 
 「なんだったんだろう・・・」リビングのソファに座って冷たい水を飲みながら輝美子はその意味を考えてみた。二人の叔母は、何か危険を知らせにきてくれたのだろうか・・・。事故とか?とにかく、しばらくは気をつけてみよう。輝美子はそう自分に言い聞かせると気合を入れて立ち上がり、朝食の準備を始めた。 

 その日は一日中、輝美子の気持ちは晴れなかった。元気のない様子を心配した職場の同僚が「どうした?何かあったのか?」と声をかけてくれたので、輝美子は今朝見た夢のことを話してみた。「何かを伝えようとしていたみたいなの」と話すと同僚は、「なーに、元気にしているのか見に来ただけさ。元気にしてるか?って聞いていただけかもしれんぞ」そう言って笑いながら去っていった。輝美子はちょっとムカッときて心の中で言い返した。「そんな明るい感じじゃなかったから心配してるのよ」「それに、問題は叔母たちのことじゃなくて、そのあとの言葉よ。誰かの声で、もうすぐ迎えが来るっていったのよ?気にせずにはいられないわよ」輝美子は一人事務所でブツブツ言いながらその日の仕事をテキパキとこなしていった。
 カタカタとパソコンを打ちながら仕事に集中していると、突然またどこからともなく声が聞こえてきた。「仕事の内容をまとめて、みんなにわかるようにしておきなさい。」「え??」 あまりにハッキリとした女性の声だったので輝美子は思わず後ろを振り返った。でも、部屋には輝美子以外誰もいない。気のせいかと思い、輝美子は無視して仕事を続けた。するとまた、どこからともなくハッキリした声でこう語りかけられるのだ。「もう時間がないから、この数日で仕事の内容をまとめて、責任者に引き継ぎなさい」輝美子は、ハッキリと聞こえた声がどうやら自分の頭の中に直接聞こえてきているようだと気がついた。「誰?何?どういうこと?」輝美子はパニックになりそうな自分を一生懸命抑えながら、深呼吸をして気持ちを落ち着けた。だんだん恐ろしくなってきた輝美子は、急いで仕事を終わらせるとそのまま家に飛んで帰っていった。 
 次の日。輝美子は仕方なく仕事の内容をまとめることにした。思えば、自分以外にこの仕事をできる人がいない。確かにもし自分に何かあった時、誰も何も分からないためにみんなパニックになって、この仕事は立ち行かなくなるな・・・。輝美子は一晩冷静に考えて今現実にあるリスクが相当危ないことがわかったのだった。「誰でも自分の代わりができるようにしておかなければ・・・。」責任感が強く、真面目な輝美子は自分に何かあるわけではないだろうが、もしもの時のためにこの職場の要となっている自分の仕事をみんなに分かるようにまとめておくことにした。とてもたくさんの量だったので、まとめるのに数日かかった。やっと完成した時にはもう、例の夢のことはすっかり忘れていた。それくらい集中して自分の仕事に取り組んだのだった。責任者にはただ「ここに大切な書類や仕事の内容をまとめたものをしまっておくから何かあったらよろしく」とだけ伝え、輝美子はいつものように姑がデイケアから帰る前に家に帰り着くため急いで職場を後にした。
 

 そんな輝美子のもとへお迎えが来たのは、それから数日後のことだった。


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