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祖母の記憶[62/100]

25歳で授かり婚をし、第一子を出産した。
なぜか、私は小さいころから「私は結婚しないだろう」と思っていたので、友人たちの中でも1,2位を争う若さでの結婚&出産に、戸惑った。

都内のレストランで開いた結婚式に、大好きな祖父母は関西から駆けつけてくれた。そのころ、すでに認知症の症状が出始めていた祖母との新幹線での旅で、祖父はすこし疲れていた。新宿で待ち合わせし、小田急百貨店で蕎麦を食べた。それから都庁で展望台に登った。

祖母と出かけることができたのは、これが最後だった。
次の日が私の結婚式だったが、祖母は何度も「何で東京に来たんだっけ」と確認していた。それでも、私のことを認識していたし、結婚式はとびっきりの笑顔で喜んでくれた。

結婚式お決まりの「両親への手紙」の場面では、嬉しさを押さえられない祖母が前に出てきて、私は祖母と手を組んで読んだ。認知症が発症するまえから、無邪気で少女のような祖母だったが、発症してからはそれに輪をかけて無邪気になった。幸せそうに「おめでとう」と言ってくれた顔が今でも忘れられない。

私の結婚式から3年後に祖父が倒れ、祖母は老人ホームに入った。だから、私の結婚式は祖父母にとって、最初で最後の孫の結婚式となった。長女の誕生のおかげで、早くに結婚することになり、祖父母に晴れ姿を見せることができたのだから、長女には心から感謝している。

祖母は苦労の人だったと聞いた。祖父のもとに嫁いでから、実家にもあまり帰してもらえず、姑からいびられたのだそうだ。祖母の娘、つまり私の母がそう言っていた。

だから、姑が他界し、子どもたちが巣立った後、祖父は祖母に好きなことをなんでもやらせてあげていた。そんな祖父に、いつも祖母は「ありがとう」と言っていた。そんな2人が大好きだった。

私の記憶にある祖母は、いつも三味線やら、カラオケやら、登山やらと忙しく、そして楽しそうだった。小学生の頃、将来の夢という作文に「おばあちゃんになりたい」と書いたほど。自由を満喫する人、それが私の祖母の印象だ。

祖母は私が遊びに行くと、必ずてんぷらを作ってくれた。2日目はすきやき。3日目からは、リクエストにお応えしてくれる。料理がとにかく上手だった。

孫がなついていることを、友達に話すとき、少し誇らしげだった。スーパーに買出しに行って「あら、お孫さん帰ってきはってるの」と声をかけられると、めちゃくちゃ嬉しそうに「そうなの」と答えていた。だから私は、祖母のカラオケや、三味線やダンスのお稽古などに、積極的についていった。

祖父に感謝を述べ、友達と遊ぶことが好きだった祖母が変わりだしたのは、大学を卒業するころだろうか。「おじいちゃんが私の悪口を言っている」と言いだし、「友達にヘタだと言われた」と三味線を辞めた。
被害妄想をするようになり、財布を無くしたり、スーパーに何を買いに行ったのかわからなくなり、そうして認知症と診断された。

おばあちゃんは今、笑わなくなった。私のこともわからない。娘である、私の母のことも。祖父が亡くなったことも、知らないでいる。
覚えているのは、少女時代を過ごした芹川の家のこと。

祖母は今、どんな気持ちなのかな。私のことはわからないし、会いに行くと「誰かしら」みたいな顔をされるけれど、私は会うと安心する。

そして、近況報告をする。祖母はきっとどこかで分かっていて「まぁさんが来てくれてうれしい。大きくなったなぁ」と言ってくれている気がしている。

私のことを忘れたままでいいから、できればこのまま、ずっと生きてほしいとおもうのは、私のわがままか。祖母はいま、幸せかな。
そんなことを考えた日だった。

住職は一瞬困惑の表情を浮かべたけれど、「そうでしたか。優しいおばあさんだったのですね」と、頷いた。

はい。佃煮を持ち帰ると勝手に喜んでしまうような祖母でした。

アレのことか。【さとゆみの今日もコレカラ/030】

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