見出し画像

場がすべてをあたえる

体感の中に快と不快がある。もちろん快だけ感じていたいけれど、さまざまな不快があるから、快もより深く味わうことができる。

自らすすんで不快を求めるつもりはなくても、身のまわりで起きることにわたしたちのセンサーは快不快を感じてしまう。

さいきん思ったことは、この体感を得ることがじぶんにとって何より大きいのだということ。「感じる」ことそのものが重要なのだということ。


お世話になった先生にお誘いいただいて、日曜日に戯曲解釈のクラスに参加することになった。尊敬している先生にオンラインとはいえ、お会いできるのが嬉しい。そして考えていた。なぜ参加するのか?なぜ参加したいのか?なぜ参加できて嬉しいのか?わたしは何を求めてクラスに参加して、何を得ようとしているのか?

レシピのような戯曲から、キャラクターの目的を探し出し、行動を選ぶ。選んだ行動に良い悪いはない。目的を果たすための、行動、行動、行動の連続。送り出される行動、行動、そこに物語があらわれ、感情がうまれてくる。観る側にもまた選択の余地がある。想像、想像、想像する。ここに立ち上がる場は限りなく豊かで、すべてを含んでいる。

その場を感じたいのだ。何もかもあることをゆるされ、何もかもを選べる世界。それぞれがじぶん自身のひかりを放ち、ほかからのひかりを受ける。

場がすべてを与える。場をそのように観る。日々の場をそのように観る。まわりの人をそのように観る。遠い世界か?叶わぬ世界か?じぶんの手をもって、たぐり寄せる、そのちからをたくわえる、まいにちの営み。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?