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【京アニ事件】なんのために生まれてきたのだろう。「普通の人」を生きる権利を考える

お昼過ぎだった。わたしはスマホで、子どもに買い与える絵本を血眼になって探していた。新聞アプリの通知が飛び込んでくる。「京アニ事件 青葉被告に死刑判決」。

わたしは、裁判が始まるにあたり企画された、朝日新聞の連載「螺旋 ルポ青葉真司被告」を読んでいた。
第1部では被告の生い立ちから、なぜ事件に至ったかが詳細に書かれ、第2部では、「無敵の人」を生み出さないために社会ができることを有識者に取材していた、とても読み応えのある連載だった。

彼の少年時代は、他の凶悪犯罪者と類似して、壮絶なものだった。両親は離婚、父親からの虐待、それに加えて時代も悪かった。氷河期、リーマンショックの煽りを受けた。

がんばってもうまく行かず、社会との接点が消え、妄想が激しくなっていく。会ったことすらない女性監督に一方的に好意を募らせ、小説家になって「大御所になる」と無謀な将来を語り、その夢が破れた後、「小説をパクられた」と本気で思い込んだ。

妄想の中で生き、しまいには36人の命を奪った。そこに真実はない。虚構をもとに、こんなことをしでかした。

彼は、なんのために生まれてきたのだろう。希望に裏切られ、ありもしない妄想で罪を犯し、業火に焼かれつつも急死に一生を得て、死刑判決を受けた。事実も、彼を想いやる人も、なかった。


死刑判決の通知が来た時、わたしは子どもたちのための本を選んでいた。本を読む楽しさを知ってほしい、自ら学べる子に育ってほしい、そう願われる子がいる一方で、存在を否定され、肉体的にも精神的にも傷つけられる子もまた、いるのだ。


青葉被告は、中学時代不登校になったものの、フリースクールで出会った先生や、定時制高校の先生の励ましでやる気を取り戻した。高校では、しっかり勉強していたという。
また、さいたま市の臨時職員として真面目に勤務していたという事実から、彼はもしかしたら、頭の良い人間だったのかもしれない、わたしたちと同じように、「普通」に生きてこられたのかもしれないというのが、切ない。


もちろん、壮絶な家庭環境を生き延びてそれなりに暮らしている人はごまんといる。
実際、彼は三人兄弟で、兄と妹は犯罪を起こしていないのだ。青葉被告が悪いのは決定的で、だから彼は裁判で死刑判決を受けたのだ。


だけどわたしは、これを個人論や自己責任論に帰結したくない。
彼は、「普通の人」だったかもしれないのだ。
そんな「普通の人」が、なぜこんな凶行に及んだのか。食い止められやしなかったのか。それを考えることこそが、これもまた「普通の人」を生きていたはずの被害者への弔いになるはずだ。


青葉被告は、公判でこうも述べている。「自分の人生を振り返ったとき、人とのつながりが完全になくなったときに犯罪行為に入る共通点がある」。

ひとは、ひとりでいると、自己の声を何重にも増幅させてしまう。ひとりで生きるには、人生はあんまりに退屈すぎるのだ(このあたりの思想は『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』(著:谷川嘉浩)から学んだ)。

それならば、社会にできる、わたしにできる支援とは。普通の人が、普通の人のままで生きられる社会にするために、なにができるのか。


わたしの周りには、「無敵の人」になりそうな人がいない。だからこその難しさがあるが、「自分とは属性の違う人だから」で終わりたくないなぁ、と思っている。



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