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#049『さかなのこ』を観て|好きなことを貫くかっこよさと犠牲になるものと鈍感であること。

先日、さかなくんの生き方を映画化した『さかなのこ』を観た。
のんが主役を務めていて、とても爽やかな映画だった。

性別ちがうんかいと心の中でツッコミをいれたが、その違いがまたよかった。

「男か女かなんてどっちでもいい」というテロップから物語が始まっていく。

※以下ネタバレを含みます

母の偉大さ

さかなくんのお母さんがかっこいい。
高校生になっても、お魚が好きで、お魚の絵を描いているさかなくんを応援してくれる。

普通だったら、「勉強しなさい」って小言を言ってしまいそうだけど、お母さんはそんなことは言わない。

三者面談で「勉強ができない子がいたっていいじゃないですか。」って教師に向かって言える母親、なかなかいないだろうな。

わたしも母になれたなら、そんなふうに子どもを認めてあげられる人になりたい。

犠牲になるもの

映画ではあまり描かれていないけれど、犠牲になったものもあったと思う。

例えばさかなくんのお兄さん。

水族館でタコさんに夢中になるさかなくんの後ろで、お兄さんは寝てしまっている。
ほんとはタコが好きじゃないのに、毎日食卓にタコが出てくる。

お母さんとお父さんはさかなくんの教育方針で喧嘩するし、挙げ句の果てには離婚してしまっている。

お母さんだって、離婚を選ばない道だってあったかもしれない。

さかなくんだって、すきなことを貫く代わりに勉強はしていない。

好きなことを貫くって簡単に言うけれど、社会の枠に当てはまらないということは、たくさんの犠牲を強いられているのだと思う。

本人も、身近で応援する人も。

鈍感さという強さ

さかなくんがさかなくんになれたのは、魚に対する熱量もさることながら、一種の鈍感さがあったからではないかと思う。

「社会のこうあるべき」にとらわれない鈍感さ。
もしわたしだったら、親の離婚の原因が自分にあったかもと考えただけでしんどくなっていた気がする。

鈍感さって令和を生きる武器なのではないかと思った。

感謝の心

さかなくんは鈍感さ以上に感謝の心を持っている。

人が理解してくれようとくれなかろうと構わないのだろうが、分かってくれた人や助けてくれた人へのビックラブがある。

こんなじぶんで申し訳ないと萎縮するのではなくて、自身のものさしを理解してくれた人への恩を忘れないのである。

最近のさかなくんのYouTubeを見ていても、それがよくわかる。

だから人に愛され、縁が繋がっていくのだろう。

おわりに

好きなことを貫くって凡人にはできないような気がする。

せめて好きなことをしているのなら、変にヘソを曲げずに、受け入れてもらえないことを受け入れて生きていきたい。

鈍感さは持てなくても感謝の気持ちは持てるよね。

おしまい。
ほんじゃ、またね〜!

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