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日記2月15日。 #日記

今日の体重。朝食後で68.9KG、体脂肪率15.76、筋量55.4KG。朝ビアジョッキ級のマグとスタバマグでコーヒーをがぶ飲みするので、約1kgは重量UPしている筈なので、起きたてだと68kg程度かと推測。目標は63kgなので5kg重い(まあ63kgはだいぶ絞り気味になるのですが。。)。

先週は木曜が休日で金曜が在宅勤務、土日を入れて4日間家にいた。歩数は木曜から順に9662、7354、6407、1606歩である。特に日曜が少ないが、これは散歩に全く出ず、2時間半ほどのドライブ(忘れ物届け)を挟んでいるから。日曜日はPM2時ころ?この地方では山下達郎氏のラジオ番組をやっている。車の運転時くらいしかラジオを聞かないのだが、この番組は録音して何度も聞きたくなるくらいの面白さ(しませんが)。楽しい時間を過ごした。

独りで運転をするのが結構好きだ。今までの人生で、どうしても同乗者がいると自分の運転をどのように思われているか、というストレス(あまり運転がうまくないと言われたことがトラウマにある)があって疲れるのだが、独りだと気楽である。ラジオも音量も聞き放題調整し放題、例えば制限のあるアパートなどに住んでいる人は、独りでドライブをすれば解放感が味わえるだろう。

唐突だが、私は鉄棒にぶら下がるのが苦手で、長時間ぶら下がっていられない。握力は人並み(50KGくらい)、体重も体格からすると普通、なのでなぜあまりぶら下がれないのか、と思ってきた。まあ昔から鉄棒が苦手という感覚があり、懸垂もあまりできないので、いまはテーマとしては鉄棒ぶら下がり時間と懸垂回数をすこしずつ増やそう、という感じでいる。苦手なことを把握して対策を打つ、というのは面白い。自身の身体だと、自身で日々確かめられる点も、面白いと感じる要因だろう。肉体改造にはまるみなさんは、たぶん同じ様な感覚なのではないか。なので、すこしオタク化する。いや、いい意味で。

論理的であることについて。

自分で論理的ではない、と自覚しているが、精確に自身の感情を読んでみると、”論理的であるのはこの日本で世間と関係して仕事を行う上で不利だ”とそもそも感じている所為もあるようだ。つまり日本においては論理的であることと、生きやすさは繋がらない、と考えている。これが多種多様の価値観が入り乱れる世界(米国等)では逆なのだろう(森本あんり、不寛容社会からの推測)。論理的でない日々は、少し幼稚な社会、という気も同時にしているのだが。

学校における学びには、自ら楽しんでやる要素と、いやいやながら金を得るために行う仕事の為、という要素の2つがある。いやいややる学びがいやいややる仕事につながり、それに耐えるのが人生だ(そう思っておいた方がいい。そうではない仕事を得られることもあるが、そうでないことの方が圧倒的に多い)。そしてみんながいやいややっているにっぽんの仕事社会では、皆が論理的ではいられず、いやいやの毎日だから生じやすい感情のぶつかり合いの中で翻弄される続けるものだ”という人生初期の学びから得たものが上記の認識の根底にある。

どういうことか。幼児期から小学校低学年の間の私の日々の暮らしでの感覚は、”どうも別の子供との接触は大変だ””面倒だ””そもそも人と人との関係構築はわけがわからないぞ”というものであった。

どう大変なのか。どうわけがわからないか。感情的なぶつかられ、がある(ぶつかり、ではない。こちらになにもなくても、だ)。理由もなく殴られる場合がある。自身に対して言って欲しくないことを言ってくるものがいる。

特に男児がやっかいだ、という印象であった(女児は話が通じるのだが、女児とばかりいるとまた男児から”あいつオンナとばかり遊んでいる”的な面倒な反応がある)。

話が通じない、(猿山的な)問答無用の世界、というのが”外界だ”、というものであった。

みなさんはどうだろうか。推測だが、似たようなものではないだろうか。日本社会の弱さ、傾向が、子供の世界に反映されている。つまり”論理的でないのが娑婆だ”、というものだ。

全く意味なく、喧嘩も感情的ないいあいさえなく、いきなり腹部をなぐられた多分小学校1-2年の時の話は前に日記にも書いたが、子供時代のわけのわからなさの記憶2選のなかの一つである。とにかく、この世はわけがわからないぞ、理由なくこんなことが起こるのか、と予想だにしない攻撃をうけ、腹部をくの字に折り涙を滲ませながら思ったのだ。

もう一つ、これは小学校1年の時の初めての集団登校の時のことだ。緊張して学校に向かい、校舎に入ろうとする直前、これまた攻撃してきた男児がいた。これはどこか予想していたのかその動きが見えて、その手をつかみ、自分の周囲を回転させて投げ捨てる形で防衛した。確か雨であった。その男児はたしか水たまりに転がっていった。とっさの防御であったのだが、確か先生は母親にそのことを告げたようだ(問題児発見、ということだろう)。母親は”そんなことあったんか、先生にいわれたで”くらいの情報共有であったように記憶する。

普段から泣き虫で、怖くて外で遊ぶのが嫌だ、と言っていた幼児時代、小学校へ毎日行く、というのは試練であった。が、このことで少しだけ自信がついたようだ。どうやら自分は打撃系ではない、グラップラー系である、と。そんな性格だから、母親はたぶん、”この子は別に乱暴な子ではない”と認識していたのだろう。

(そんな思いでもあるが、学校で科目ごとのいろいろな知識形態とその深みを垣間見ることは大変重要だ。自らが自らの興味に従って行う研究の、きっかけになってくれるから。そういう意味では学校はやはり必要だ。)

社会での関係性、議論は所詮そうした幼児性にあふれたレベル、という認識がある。例えば国会における議員間のやりとり。私がもし職として議員にあれば、そして野党議員であるのなら、”国民の皆さんの不満、恨みを体現するような形相、声色、迫力でもって、政府に文句を言う”という体の演出を、”それでいいのか”と思いながらも取り入れつつ議論をするだろう。そしてどこかで、”こんな演出込でやる議論ってどうなんだ”と思ってしまうだろう。

議員が人に選ばれて行う責務である以上、人が好むであろう所作をせざるを得ない。もちろん専制よりはいいのだが。

議員の皆さんの一部は、国会では演技が求められるからな、と心のどこかではうんざりしているのではないだろうか。

(なので、今の日本で議員になるのはしんどそうですね。池田晶子さんがある意味理想は”哲人政治”とおっしゃったことを思いだします。演技ではない、猿山的ではない、議論、というものを見てみたいなと思います




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