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9.10 ランティエ(金利生活者)と権力関係。

昨日はジムでINBODYをやった。前回は6月頭なので3か月経過したこととなる。

いままでは市営のスポーツセンターでトレーニングしてきたが、3か月の改修期間のみのつもりで自転車で10分、あるいて20分の24時間ジムに入った。

一番の違いは集中しやすさである。24時間であるので客数は比較的ばらけていると思われるし、器具も勿論最新だ。

一番大きかったのは照明。薄暗いところが私はとにかくすきなのだが、スポーツセンターは明々と照明が我々を照らす。

24時間ジムは薄暗く、まずはリラックスする。あとはコロナによるマスク着用。これでお互いほとんどお互いの面相はわからない。

まあ、私が近視であることもあるだろう。視力がいい人はそうでもないのだろうが、人は自分が見たいように世界をみるものだ。私にボンヤリ=みんなも見えてない(はずだ)(笑)。

そんなこんなで集中しやすいのだ。やはり違う環境に身をおくことで、客観的に一方のことがじわりわかってくる、ということだろう。

体重は0.5キロ減の63キロ。体脂肪率は約1%減の7.4%であった。2016年に測ったINBODY的な資料が出てきたので比較すると、体脂肪率で3%上がっている。6年前と大きく違うのは、腕の脂肪が減ったこと。足の脂肪は変わらないので、これはもしかするとぶら下がり健康器で懸垂と足上げ腹筋を追加するようになったことで、腕の脂肪がなくなったのかもしれない。

比較は一方の状況をあきらかにする、ということが、ここでも発生している。

内田樹先生の「期間限定の思想」を電子書籍で読んだ。1年まえだ。私は気になった箇所を日記的にルーズリーフに書き写しているが、書くと安心してすぐに忘れてしまう。1年前に考えていたことはなにかな、と思いそのページを読むと、内田先生の名言が数々書き写されているではないか。

男女関係においては、不幸であることが「常態」なのだという真理を受け容れたものだけが、ほんとうの幸福に触れるチャンスがある。(同書27%)
近代ヨーロッパにはこの種の「遊民」、すなわち膨大な数の「ランティエ」(金利生活者)たちが存在した。(同書28%)

(理由)デカルトの時代から第一次世界大戦までほとんど貨幣価値がかわらなかった。小金をため、公債を買い利子で食べる(子孫)。家は石造り。備え付けの家具什器を使う。

こうしたランティエと呼ばれた層は、1914年の戦争で貨幣価値が下落し消滅した。
そして彼らとともにヨーロッパにおけるすべての「高踏的なもの」、要するに「美しいが無意味なもの」を生産し消費する社会集団も消えたのである。
「何かを手に入れる最良の方法は、それを他者に与えることだ」レヴィ=ストロース(同書12%)
「仕事の本質は他者をめざす運動性のうちにある」(同書16%)
多くの人が考えているのとは反対に、人が奇矯な服装や奇怪な身体操作をする理由は「目立つ」ためではない。「見られない」ためなのである。ヤクザであれ、右翼であれ、パンクであれ、その「異様さ」は「私を見つめてはいけない」を意味する記号なのである。
ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』で教えてくれたのは、権力関係とは煎じ詰めれば「見るもの」と「見られるもの」の位階差のことだということであった。(中略)「パノプティコンの主要な効果は、拘禁されている者につねに『自分は見られている』という意識を抱き続かせることである。それによって権力は自動的に担保されるのである。(同書32%)

(注)パノプティコンとはベンサムが考案した「一望監視施設」のこと。

この電子書籍は、ページではなく全体の%でその箇所を示す造りであるので、(同書 xx%)なる珍妙な表記となっておりますのでご容赦ください。

本を読むことはすばらしい、といつも勝間和代さんがおっしゃっているが、こうして自ら思いつかないような視点を提供されることは、なるほど本当に心楽しいものだ。

先賢、とはよく言ったもので、そうした人がいろいろ書き残してくれること、これは上記で内田先生がおっしゃっているような「自ら手に入れるために他者に手渡す」の最たる例であろう。

卑近な例であるが、私が楽しく取り組ませて頂いている「銅版画」、グループ展などで自作、他の方の作品の解説などをさせていただくことは、この上ない幸せであることを実際に行って知った。

ましてやご購入いただいたりしたら。本当にありがたく、天にも昇る嬉しさ、という感覚を大げさではなく感じたものだ。

あと、ランティエについても歴史的、文化的な位置づけからの気づきを頂いた。ここ日本では家とは棄損するものだ。長期持ち続けることは、石造り、地震のない国と比べて困難である。「家は自分で作らねば」というのがだいたいの皆さんの意識であろう。

家を壊せば、先祖代々の、とまでいわずとも、先代の什器でさえが継承困難である。勿論それができる旧家、というものは、今でも少数はあるのであろうが、それはレアすぎるがゆえに、日本的しがらみ、束縛もすごい気がする。

昔ランティエという雑誌もあった。そのときは「高等遊民」というイメージでいたのだが、「金利生活者」というと実もふたもなく真実味が伝わってくる。

森博嗣さんが、各地域に美術館など文化施設があるのは余裕がなければ無理である、という、「不都合な真実」を示されていた。明治や大正の文豪を見ていても、森鴎外や倉田百三などの例を思い出しても、やはり裕福な層がそのまま一家をなすようなケースが多かったと感じる。

ランティエしかり、有閑階層しかり、やはり「どうでもいいがあったら芳醇な文化を育むような無駄」はなかなか得られない世界で、あるのだろう。

(無駄は無駄であるがゆえに重要なのかもしれませんね。。)



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