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日記12月6日。 #日記

承認欲求とは。

家族や恋人とはSNSでつながらない
『図解ストレス解消大全』堀田秀吾

最近の一番の悪者と言えば、”承認欲求”であろう。人々はこれに取りこまれ、魂を抜かれ、意識せずにその奴隷となりはてている、ということになっている(個人的印象です)。

前の日記では、他人の承認ではなく、自らの心の眼、審美眼、真実を見抜く目を育て、自らの承認を得るようにすべきである、というようなことを書いた。

承認、の醜い双子の兄弟は、(他人との)比較である。比較があって、承認がある。承認とは”他人が自分と他の存在を比較し、自分の方がなんらかの面で優れていると評価する”という行為だ。普通は、そういうことになっている。意識して”他人の評価”という地獄の技から逃げるべく努力したものだけが、(他人からの)承認が欲しい、という地獄の欲求から逃げることができる。

これが結構ハードルが高い。なぜなら幼少期より、当たり前のこととして他人から評価を受けることが、人間界で過ごすということだ、という文化的刷り込みを、絶え間なく受け続けるのが人生であるからだ。

他人からの評価。あの子は運動ができる。美しい顔立ちだ。勉強ができる。家が金もちだ。幼稚園、保育園、小中高、大学、社会。すべての世界で、その地獄は待っている。比較されてナンボの世界たちだ。

生存競争、生きるためのDNAの要求であろう。すべての瞬間、すこしでもよい存在へと進化する、ということをDNAは要求する。そして、普通はそのことを当たり前、と魂は感じるのだ。生きている存在としてはあたりまえだ、と。

だが、本当にそうだろうか。すべてをDNAの本能にまかせ、承認欲求と他人との比較まみれの人生で、”本当にたのしいのだろうか”。

個人的には、そうとは思わない。

生きものとして、当然であろうとも、本能は私とは違う。本能はSPECだが、生きることはSPECとは関係がない。

早く走れるが、走るかどうかは”生”が決めることだ。

生きることは、生きるための食糧を得ること。まずそこから始まるだろう。

チャップリンの言った、”愛と勇気とサムマネー”、最後の”サムマネー”こそがなんとか工面すべきである。そしてなんとかかんとか工面が出来そうだったら。

次は”愛と勇気”だ。そこには、比較も、承認欲求も、無い。

ただ、他人を、承認する、という上から対応ではなく愛で対応する、ということだけが、

ある。

・・・冒頭のストレス対応ハック、SNSを意識せずやると、承認欲求が普通取りこみをかけてくるので、それ以外でのさまざまな関係性がある家族や恋人とはつながらないほうが、いい、ということになるのでしょう。

(さすがチャップリン。本質を突いてますね!)

お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。